8月のGlobal Session レポート(2024)
期日:2024年8月18日(日)10:30~1:00

場所:ガレリア3階会議室

ゲスト:濱田雅子さん(アメリカ服飾社会史研究者・神戸市在住)

    ゲストはオンラインで参加

テーマ:1930年代アメリカの服飾史―アメリカンルックの誕生―

参加費:600円

参加者:オンライン:濱田雅子さん・吉川佳英子さん・丸山政行さん

亀岡で:秋山昌廣さん・川並二三子さん・畑佳延さん・田尻悦也さん・

    藤田宗継さん・亀田博さん(コーディネーター)・児嶋きよみ

計:10名

亀田(コーディネーター):おはようございます。今回は、1930年代のアメリカ服飾史 

  ということで、ちょうど第2次大戦前の、大変な時代であったかと思いますが、そのころのアメリカの服飾の歴史を話していただきます。まず、参加者の自己紹介からお願いします。

吉川さん(オンライン):濱田さんのセッションに、初めての参加者の方もいらっしゃるようですね。吉川と申します。東京在住で、名古屋の大学でフランス文学などを教えていますが、最近は、芸術、社会、思想などにも関心を持っています。落ち着いて話す機会が少ないのですが、これからも勉強していきたいと思っています。

丸山さん:旅行業を長くやっていましたが、2023年までは、鹿児島国際大学でも仕事をしていました。その中から、京都大学大学院へ2名、大阪大学大学院へ2名送り事ができました。彼らは人間科学研究科などに進学して研究をしていました。現在も研究中の学生もいます。母方は和歌山県で江戸時代から林業を営んでいて、今はそれを受け継ぎ、スマート林業として、CO2削減プロジェクトを推進しています。

秋山さん:はじめまして。ブラジルの日系人です。2015年に初めて亀岡に来て大本に所属しています。その後、帰国し、2018年には、大本南米本部に居て、ブラジリアやサンパウロで仕事をしています。これからもよろしくお願いします。

児嶋(9月のGlobal Sessionのゲストです)

田尻さん:御無沙汰をしております。近況報告ですが、島津製作所で仕事をしていましたが、契約期限が来て、別の会社に移ります。こんどは、プラスティック製品を作る会社です。

  転職を機会に京北町の実家を出て、昨日から亀岡に住んでいます。亀岡が好きなのと、交通の便がいいので。これからもよろしくお願いします。

濱田さん:新しい出発ですね。お若いですが、後押しをしていますよ。

田尻さん:なかなか大変でした。結構お金も使ったし、友人達にいろいろ支えてもらいました。明日から新しい仕事に行きます。今日、みなさんにお会いできてうれしいです。

濱田さん:順調に行かれるよう祈っています。Youtubeも見てくださいね。

畑さん:総合商社に勤めていましたが、2年前に退職してふるさとの亀岡に帰って来ました。Global Sessionは、児嶋さんに誘われて、2022年から参加しています。毎月、いろいろなテーマで話を聞き、意見も言えて、頭の体操になると参加しています。今日の濱田さんのお話しははじめてですが、楽しみです。

濱田さん:よろしくお願いします。

川並さん:濱田先生とは初めてです。実は、滋賀県で35年間養護学校の教員をしていました。8年前に退職し、今は、京都市内の中京区に移り住んでいます。日野市に家があったのですが、今も山だけはそのままあります。

藤田さん:こんにちは。ひさしぶりです。あまり元気ではなかったのです。脳神経科に10日ほど入院したりしていました。この濱田さんの講座を聞きたくて参加しました。

濱田さん:お体に気をつけてくださいね。

佐々木さん(亀岡交際交流協会職員):いつもお世話になっております。

児嶋:(共催をしてもらっています)

濱田さん:おかげさまで良い機会を得ることができています。

佐々木さん:ためになる勉強をさせていただいています。児嶋さんを通じてお世話になっております。

児嶋:この濱田さんのゲストとしてのシリーズは、Global Sessionでは27回目になります。Global Sessionは、1999年から始めて、今回は378回目になります。

  もう、20年を過ぎていますね。最初のころからの参加者は、藤田さんや亀田さんです。

濱田さん:一度も計画をくずさないところがいいですね。ふり返ると大変でしたが続けられることがうれしいです。レポートもいいですね。活動の記録が有った方がいいですね。

亀田さん:みなさん、自己紹介をありがとうございます。私は大津市から来ています。琵琶湖も暑いです。北の方の福井県との境はまだ涼しいと思いますが。今年は、琵琶湖も事故が多いです。夏は気をつけなくてはいけませんね。私は、ツアーを主催する仕事をしていますが、コロナ禍で、4,5年はしっかり海外には行っていません。今は円安で他地域の物価が高いです。ヨーロッパでは、昼に3000円くらいかかり、夜は5000円くらいになります。日本の方はこの夏ハワイに行かれた方もあるようですが、かなりの出費になったと思います。日本国内は、大体、コロナ禍前に戻ってきてはいるようですが、パリのオリンピック期間に、フランスから日本に旅行に来た人がかなりいたようです。フランス人でも、フランス国内は、許可証がないと自由には動けなかったらしくて。中国からは、ビザの関係で、まだ旅行者は少ないですね。今年のお薦めは、オーロラを見られる北海道への旅です。今年と来年は、よくオーロラが見られるようですよ。江戸時代には、京都や兵庫でオーロラが見られたという記録があるようです。

濱田さん:亀田さんから、北海道へオーロラを見に行くツアーを組んだらどうですか?

亀田さん:タイミングが合うかどうかですね。

  では、濱田さんの講座のスタートです、よろしくお願いします。

濱田さん:まず、近況報告です。

1.Global Sessionに関わる著作をベースにYouTubeに挑戦していて17回目をアップしました。また、みなさまも見てくださいませ。

2.亡くなった父のライフワーク(ホメーロスの『イーリアス』の翻訳書)をせせらぎ出版から9月中旬に出す予定で、今はチェックに励んでいます。トロイ戦争、トロイの木馬で知られています。世界最古の西洋古典文学です。

3.出版社からの監修や原稿依頼などに取り組んでいます。

                         (文責 児嶋きよみ)

 

濱田雅子の「服飾から見た生活文化」第27回 概要

テーマ 1930年代のアメリカ服飾史―アメリカン・ルックの誕生―

全体構成

Ⅰ 参考文献

Ⅱ ヨーロッパの1930年代のデザイナー

 1. 歴史的背景

 2. 1930年代の服飾

 3. 1930年代のデザイナーの作品

Ⅲ アメリカン・ルックの誕生

 1.認知されたアメリカ人デザイナ-の特質
 2.認知された代表的な1930年代アメリカのデザイナー
Ⅳ クレア・マッカ―デルの生涯と活動
 
1. マッカ―デルの経歴と作品

 2.ヴィオネとシャネルの影響

  3.シャネルとマッカ―デルの比較

Ⅴ 第二次大戦下のアメリカン・ルック

Ⅵ まとめ

 

Ⅰ 参考文献

● Kohle Yohannan and Nancy Nolf,Claire McCardell, Harry N.Abrams. Inc., New York,

● 濱田雅子著『パリ・モードからアメリカン・ルックへ アメリカ服飾社会史 近現

代篇(POD出版)

 

Ⅱ  1930年代の服飾の特色

● 1930年代ルック。その胸は強調されず、マークされたウェスト・ラインは自然な位

置か、やや低め、スカートはバイヤス・カットで大腿部の下まで体にまといつき、そ

こか襠やフレヤーが入って垂直に落ち、全体としてソフトな流線型のラインを構成し

ている。

● ロング・ドレスの再流行

● 体の量感を強調するデザインの再登場

● ドレープ・ドレスが人気を集めはじめる

● 1929年の大恐慌のパリ・モード界への影響

 

Ⅲ アメリカン・ルックの誕生―「アメリカン・ルック」は、アメリカ人女性と典型的なロード・アンド・テイラーの顧客のライフスタイルを取り入れて具現化した、特定のファッションスタイルを描くために、ドロシー・シェーバーによって一般化された用語でした。シェーバーは、アメリカの女性のためにアメリカのデザイナーが特別に作ったスタイルがあると信じていました

 

1.認知されたアメリカ人デザイナ-の特質

● SF・レイプツッヒ(Sheryl Farnan Leipzig, JL・パ-ソンズ(Jean L.Parsons )、および JF・ベック(Jane Farrell-Beck)の論文は、1930年代におけるアメリカ人デザイナ-の昇進をテ-マとしている。パリ・モードから「アメリカン・ルック」への転換に関して、大変、論理的に考察された論文である。アメリカ人デザイナ-の認知について、各デザイナ-の特徴に言及しながら、子細に言及されている点は、特に注目すべきである。

 Sheryl Farnan Leipzig, Jean L. Parsons & Jane Farrell-Beck, It is Profession that is New Unlimited, and Rich: Promotion of the American Designer in the 1930s, Dress vol.35, 2008~2009.

 

認知されたアメリカ人デザイナ-の特質

単にアメリカ人デザイナ-の認知と言っても、パリのデザイナ-との違い、アメリカ人デザイナ-の特質を具体的に把握し、評価しなければ、真の意味でのアメリカ人デザイナ-の認知とは言えないであろう。本論文では、以下の7つの特質を上げている。

①「アメリカン」としてのデザイナ- 

②「女性」としてのデザイナ-

③「オリジナル」な才能をもつデザイナ-

④「実用性」を重んじるデザイナ-

⑤「管理」能力のあるデザイナ-

⑥「裕福な」存在のデザイナ-

⑦ 教育者・趣向のメ-カ-としてのアメリカのファッションデザイナ-

 

①「アメリカン」としてのデザイナ- 

本論文では、アメリカのナショナリズム、および、フランクリン・ル-ズベルトの経済回復のためのニュ-ディ-ル政策は、アメリカ人デザイナ-のプロモ-ションを奨励したと述べられている。

そして、引き続き、移民がアメリカで市民権を得て、デザイナ-になった場合、アメリカ人のデザイナ-として認知されたと述べられている。

 

②「女性」としてのデザイナ-

本項目では、女性にはデザインの仕事の適性があることが、以下のように強調されている。

「ファッショングル-プに加えて、いくつかの他の団体が、アパレルおよび装飾芸術分野における女性の専門家の昇進を促進した。国家芸術産業連盟、美術教育連盟、全国職業指導協会、女性専門職協会、全国小売りドライグッツ協会は、多くの場合、キャリア情報の形で出版されたすべての資料を提供している。 戦争の間、女性は職業を支配した。ア-トとスタイルとのより良い、より自然なつながりを持っていると考えられている女性は、デザインにおける仕事に最も適していると思われる。女性のための『適切な』雇用としての地位を与えても、アパレル取引は、家庭で最終的に使用されるスキルを向上させるために役立つかもしれないので、無駄な教育や訓練のようには見えなかった。」

 

③「オリジナル」な才能をもつデザイナ-

この項目では、女性デザイナ-は「オリジナル」な才能を持っていることが、次のように指摘されている。

「たとえば、デザイナ-のミュリエル・キング(Muriel King)はインスピレ-ションのために自然を使った。ジェシ-・フランクリン・タ-ナ-(Jessie Franklin Turner)は、テキスタイルをインスピレ-ションの源として使用し、しばしば自分の生地をデザインした。」

 

④「実用性」を重んじるデザイナ-

本項目では、「実用性」を重んじるデザイナ-について、次のように述べられている。

「デザインにおける実用性は、アメリカのアパレル業界の商標特性となっており、現在進行中の国家的理想を反映している。「1930年代になると、アメリカのデザイナ-は、自分の声と存在を発展させるために大きな進歩を遂げた。」

 

⑤「管理」能力のあるデザイナ-

「ネッティ-・ロ-ゼンスタイン(Nettie Rosenstein)は、可能性のある小売業者を個人的に見直し、適切な場所と商品を使用して財政的に最も適したものを手作業で選んで、自分のデザインを適切に紹介した。」

「女性は、長年の経験とサポ-トの役割を果たしてから、デザインの職に就きたいと考えていた。いったん達成されると、デザイナ-は業界の『クイ-ンビ-』であった。」

 

⑥「裕福な」存在のデザイナ-

本項目では、デザイナ-の給料について、次のように述べられている。ファッション・デザイナ-がいかに高級取りであったかが明らかである。

職業のトップレベルに達していた人にとっての給料を「高給取り」と説明し、$ 50,000という製造会社の利益の半分と同じくらい高い給料について記事で言及した。同じ期間のキャリア情報文献によって提供された所得水準は、デザイナ-は、既製品業界ではドレスメ-カ-やカスタム衣装の生産者よりもかなり高い報酬を得ていることを立証している。

「収益性の高い給料に加えて、デザイナ-はギリシャやバミュ-ダのような場所で、エキゾチックな休暇を楽しんだ。彼らは水彩画、乗馬、犬の繁殖など、興味深い高級趣味を楽しんだ。彼らの旅行や趣味は、何らかの形で仕事とインスピレ-ションに貢献し、デザイナ-としての発展のために重要な活動として描かれた。」

 

⑦ 教育者・趣向のメ-カ-としてのアメリカのファッションデザイナ-

本項目では、アメリカのファッション・デザイナ-は教育者であり、趣向のメ-カ-であったことが、明快に述べられている。

「見た目の超人物のこのようなミックスは、アメリカのデザイナ-を趣向とスタイルに関する有資格者として位置付けた。ヒント一覧が定期刊行物に登場し、読者には装いに関する簡潔なガイドラインを提供し、予算内で賢明でスタイリッシュなワ-ドロ-ブを作成した。この目的のために、アメリカのデザイナ-は貴重なリソ-スとなった。彼らは、スタイルを維持しながら、特定のフィギュアの問題に対応するために選択する最良のデザインラインに関するガイドラインと、衣服の予算を節約して、やりくりするためのヒントと合わせて、消費者にファッションとスタイルに関する実践的なアドバイスを提供した。より才能のあるコミュニケ-タはインタビュ-を許可するだけではなく、彼ら自身の記事を書いた。」

 

 

Ⅳ クレア・マッカデルの生涯と活動

● クレア・マッカ-デルは第1代目の真の意味でのアメリカ人デザイナ-であり、「ア

メリカン・ルック」の創始者と呼ばれた。

● 年 表

1905  アメリカ合衆国のメリーランド州、フレデリックで誕生。

父:上院議員にも選出された銀行総裁

母:南部の軍人の娘。かなり裕福な育ち。

兄弟:クレアには3人の弟がいて、スポーツ好きな少年として成長。

 

1925 芸術工芸学校、今のパーソンズ・デザイン学校 Parsons School of Design

(当時は New York School of Fine and Applied Artsと呼ばれた)でファッションイラストを専攻。 タウンリー社で働く

1927   卒業後、7番街の会社で、パタンナー、モデル、デザイナーなどの仕事を転々とする。

 

1930  彼女はスタートしたばかりの若手デザイナーのロバート・タークのアシスタントになる。彼のベンチャーが失敗したので、その後、彼とクレアはタウンリー社(確立したスポーツウェアのアトリエ)に移る。

 

1932 タークが事故で死亡。クレアは正式なデザイナーへと昇格。会社が崩壊するまで、彼女は7年間、タウンリー社に留まった。

 

1938  タウンリー社で仕事をしている間、彼女は最初の商業上の成功をおさめる。

「修道院のドレス」(着用者がサッシかベルトで彼女自身のウエストラインをかたどった流麗なローブのようなデザイン)

1939 タウンリー社が会社を畳む。

彼女はハティ・カーネギーで短期間、働く。カーネギーのメゾンはパリジャンのデザインを販売したが、マッカーデルのデザインは、カーネギーの好みには、あまりにもシンプル過ぎた。

 

1940 タウンリー社が再オープン。          

クレア・マッカーデルは、最初のコレクションを持参。このコレクションは、当時としては急進的な自然なショルダーが特徴的で、袖付きのワンピースに裁断されていた。

プリーツかバイアス・カットの採用。

 

1940年代 ビーチウェアと遊び着をデザイン。

クレア・マッカーデルは古典的なギリシアとローマの巻き衣とスタイリングに非常に関心があった。 彼女は多くのカジュアルな衣服を作ったが、彼女のいくつかのガウンは真に古典的なデザインである。

 

1942 「ポップ・オーバー」ドレス(巻きつけて着るホームウェア)をデザイン

 

1952年 マッカーデルはタウンリー社の共同経営者兼副社長になる。

 

1953に、クレアはテキサス出身の建築家アービング・ドゥロー・ハリスと結婚した。 彼らはニュージャージー州のフレンチタウンの農家で自分達の時間を享有した。

 

1955 綿のリゾート用の衣服を作るのにシャガール、レジェール、ピカソ、ミロ、およびデュフィのような現代の芸術家のデザインを使用した。彼女はヨーロッパの芸術家のスタジオに彼らを連れて行った。

クレア・マッカーデルは53歳のときに癌で他界して、ファッション界は一人の偉大なデザイナーを失った。

 

Ⅴ まとめ―クレア・マッカ―デルに対する評価

● 初期のシェーバーのプロテーゼであったクレア・マッカーデル(Claire McCardell)は、典型的なアメリカのデザイナーとして知られるようになりました。LordTaylorとの会合に先立って、彼女は長年にわたってデザインしてきましたが、適度な成功を収めました。彼女はパリのオートクチュールのスタイルを拒否し、自分の道を歩いていたので、大量の魅力を見つけることができませんでした。しかし、1945年、LordTaylorのスポンサーシップを受け、彼女はデザインに対する支持、露出、賞賛、認知を得ました。

 

● シェーバーが宣伝していたシンプルで機能的でスタイリッシュなアメリカン・ルックに完全に合っています。彼女のデザインは、テントドレス、ラップアラウンドスカート、ハーレムパジャマ、流行の水着、デニムの使用、擬似毛皮など、今や共通すると考えられる多くのファッションのための道を開きました。ライフは、1990年に彼女のデザインに影響を与えるために、20世紀の最も重要な100人のアメリカ人の一人と名付けました。彼女は彼女の名前をライセンスする最初のアメリカのデザイナーの一人であり、Timeのカバーの初めての女性デザイナーでした。

                              (文責 濱田雅子)

 

質疑・応答

                                  

亀田さん:ありがとうございました。では、質問などがあったらどうぞ。

畑さん:ひとつ質問があります。ファッションの世界はあまりわからないのですが1930年代と言えば、アメリカを中心とした大恐慌の時代です。経済状況はファッションに影響を与えなかったのでしょうか?

濱田さん:1920年代は、女性がアメリカではようやく社会に進出をし始めました。ファッションとしては、ドレスの丈が短くなりました。それが、1930年代になると、恐慌で、女性は仕事を失い、また、家庭に戻る状況になってきました。そうすると、ドレスの丈はまた長くなり、洋服の布を多く使うようになるという変化はありました。

畑さん:シャネルは高級品として、その人に合せた服を作っていたと聞きましたが、経済的に十分でない世相になると、既製品に移るというような変化があったと言えるのでしょうか?

吉川さん:充実した発表をありがとうございました。美術館などの展示品も見せていただきましたね。クレア・マッカーデルを取り上げていただきましたが、モダンなデザインで現在でもいけるのではないかと思いました。パリとの関係も見せていただき、バイヤスやストライプなどの効果もあると思いました。シャネルもオートクチュールですが、ジャージ素材やベーシックなカラーも使用していたのが印象的でした。シャネルの影響もアメリカファッションにあったのでしょうか?

濱田さん:シャネルは主に、1910年代ですが、アメリカのマッカーデルは、1930年代で、機能的なデザインで、紳士服の生地も使っていました。機能的なデザインというのは、シャネルとの共通点だと思います。また、シャネルはシルクを多く使い、マッカーデルは、ウールが多いと思います。

藤田さん:私は映画界で仕事をしていたのですが、いなはたかくたろう稲畑勝太郎さんと言う人が当時フランスへ留学し、染色の勉強を目的に行ったのですが、当時フランスではルミエール兄弟が映写機を発明した時代です。その時に、稲畑氏は、映写機とフィルムを持ち帰りました。そして、日本電燈(関西電力)を作りました。当時、フランスと日本の電圧のちがいがあり、それを取り除くためにドイツ人技師を呼んで、ようやく映像が上映できたと聞いたことがあります。フランスのファッションの中に、その方との関係はないのでしょうか?

濱田さん:先ほどどこかで映画の話はありましたね。調べてみます。

藤田さん:1920年~1930年代の話と思いますが、できあがった映像を見に、たしかルミエール兄弟も京都に来られたと聞いていましたので、関係があるかと。

濱田さん:今はオンラインのため、細かいことは分かりかねますが、もう一度藤田さんから、児嶋さんを通して詳しい話を聞かせてください。それから、ゆっくり調べてみます。

藤田さん:別の人物かもしれませんが、児嶋さんを通してまた、メールをさせていただきます。

濱田からのお返事(8/20記):下記のサイトに、リュミエール兄弟が発明した映写機で上映された映画がYou Tubeで紹介されています。今回のテーマの1930年代より、35年ほど前の時期ですね。

    「18951228日、パリのグランドカフェのサロン・インディアンで、リュミエール・シネマトグラフの初公開上映会が開催されました。ここでは、それをデジタル化して構成した10本の映画を紹介します。」と書かれています。

19世紀末のファッションです。映画は、面白いですよ。他の参加者の方もぜひ、ご覧下さい。

    https://www.institut-lumiere.org/musee/les-freres-lumiere-et-leurs-inventions/premiere-seance.html

 

また、Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95)に詳しくシネマトグラフについて、開発の歴史や各国への伝播について書かれています。最後の方に日本で制作された映画も一部、公開されています。大阪や京都や東京や横浜で上映されています。このWikipediaでは、稲畑勝太郎とリュミエール兄弟について、詳しく書かれています。私も大変、勉強させていただきました。写真機の歴史は、ルイ・ダゲールを筆頭に詳しく調べたことがありますが、映写機の開発は知りませんでした。ありがとうございます。

 

川並さん:今お話しを聞いていると、1920年代~1930年代のアメリカのファッションの話でしたね。私の母は1928年(昭和3年)生まれです。今96才ですが、母の国民学校時代の写真を見ると、キモノ姿と洋服を着ている子どもが半々です。1920年代のアメリカは、一般女性はどういうベースの衣服を身につけていたのでしょうか?世界恐慌も間にあって、普通の女性たちの衣服の変わり方はどうだったのかと思いました。

濱田さん:アメリカは、第1次大戦後、女性は働き始め、先ほどいいましたように洋服の丈も短くなって、やっと締め付ける洋服から開放された時代です。1930年代になり、不況になると衣服のデザインも、布の使用量も変わってきたと思います。でも、日本とはまだ大きな差があったと思います。

田尻さん:アメリカの1920年代にボーイッシュスタイルがあったことに驚きました。写真をみていると楽しくなります。今の時代でもおかしくない自然な服装のデザインのように見えました。

濱田さん:私も見た時におしゃれだなと思うのもありました。

田尻さん:ヴィオネのデザインだと思いますが、紺色のワンピースがいいと思いました。

濱田さん:今も魅力的ですよね。私も作りますが、バイヤスでのフレアースカートを作るのは、難しいです。きれいに仕上げるには、フレアーがきれいに落ちてこないと無理なので。

田尻さん:ドレスは濱田さんお一人で作るのですか?時間もかかりますか?

濱田さん:はい。うすい素材は特に難しいです。技術と手先の器用さと経験も必要です。それに、手が荒れていると毛羽立つので、手の状態も要求されます。オーダーメイドは、デザインによるのですが、難しいですね。

田尻さん:きれいにみえるように工夫や苦労があるのでしょうね。

濱田さん:作った服はアメリカ服飾社会史研究会の下記のホームページに掲載しています。

 

コスチューム・コレクション - アメリカ服飾社会史研究会 (american-mode.com)

 

手描きやパソコン(フォトショップ)でスタイル画を描き、パターンを起こして、布地を裁断して、仮縫いし、ミシンで縫います。裾などは手でまつります。上記サイトのコレクションは、国際服飾学会の衣装展に出した作品です。布という平面から、衣服という立体を作りあげるのは、実に楽しい世界です。

私は、今81才ですが、以前脳内出血で倒れ、その時は左半身麻痺で車椅子でした。入院していたのは、冬休み中でしたので、猛烈なリハビリの結果、春に始まった大学の授業には支障をきたすことなく、教壇に立つことができました。その後、亀岡のGlobal Sessionにもゲストとして、何度も通いました。今もパソコンは、右手だけなので、時間をかけて作成しています。左手でパソコンは打てません。

児嶋:1920年代からのデザインを見て来ましたが、今も着れそうなデザインがたくさんありますね。現在は、それぞれが着たい物を着ていいと思うし、規制はほとんどないと思いますね。私は、毎朝どの服と服を合せると、長さや色のバランスがいいのかを考えることが好きで、起きる前に少し考えて、パッと手に取り、着る物を選んでいます。

濱田さん:確かに、以前は、ミニスカートや、パンタロン、ロングスカートなど流行した時期がありましたね。今は多様化していて、個人の選択に任されているといえます。流行も全くないわけではないですが、これが流行というものはないですね。自由に自分で選択できる時代です。面白さでもあり、ファッションの規制はないと言えますね。

川並さん:今は、素材がリサイクルの物も出て来ていますね。私が今日着ているのは、山形県のある人の作品ですが、紙製です。素材へのこだわりとして紙を使っていて、長く捨てずに着られるものとして作られています。

田尻さん:それは、いくらくらいの商品ですか?

川並さん:1万5千円くらいです。とても涼しくてさわやかで、洗濯にも強く、日本製で職人の技術を使っていると思います。

亀田さん:ペットボトル製のリサイクル素材から、バッグなどいろいろな物を作っていますね。加工しやすく、体に負担がかからない物をと。

濱田さん:川並さんのは、暑くはないのですか?

川並さん:涼しいです。洗濯も何度しても大丈夫です。

亀田さん:楽そうですね。

濱田さん:エレガントですしね。

藤田さん:さわらせてください。さらさらしていますね。

亀田さん:丸山さんからご意見は?

丸山さん:1920年代からヨーロッパは第1次世界大戦になり、第2次大戦が終わるのは1945年5月4日ですよね。アメリカは戦争に関連はしていたけれども、衣料にも力を入れることができたんだなあと思っていました。日本は戦争状態が続いていたと思います。アメリカ本土は当時も豊かな国であったと言えるのですね。

    今は、大統領選挙も近く、そのころの力は取り戻せていませんね。生きるか死ぬかでは、ファッションに力を入れられませんものね。当時はアメリカは国力があったのでしょう。

濱田さん:当時、アメリカに始めて洗濯機がとり入れられたころです。

吉川さん:フランスと合せて、アメリカのことを聞けて満足しました。

亀田さん:そろそろ時間です。感想があれば、児嶋さんを通じてお寄せください。また、レポートで見る事ができますので。

濱田さん:レポートは貴重ですね。

亀田さん:次回の濱田雅子さんのGSは、3月です。ぜひ、またご参加ください。次回は1940年代でしょうか?

濱田さん:はい。1940年代アメリカ服飾史です。

                                                                         (文責 児嶋きよみ)

 

9月のGlobal Sessionのお知らせ(2024)(案)

期日:2024年9月16日(月・祝)10:30~12:00

場所:ガレリア3階会議室

ゲスト:秋山昌廣さん(ブラジル出身・大本本部 亀岡宣教センター)

テーマ:亀岡のブラジルの姉妹都市について・ブラジル移民の歴史等

参加費:600円

申し込み:児嶋きよみ e-mailkiyomi-kojima@gaia.eonet.ne.jp

内容:

1.亀岡のブラジルの姉妹都市ジャンジーラとの歴史

2.ブラジルへの日本からの移民の歴史は100年以上(知ってる?)