2月のGlobal Sessionのレポート(2024年) 修正版

 

期日:2024225日(日)10301230

ゲスト:濱田雅子さん(オンライン:アメリカ服飾社会史研究会会長)

コーディネーター:亀田博さん

タイトル:「1920年代アメリカの服飾史」

主催:オフィス・コン・ジュント&亀岡国際交流協会

共催:アメリカ服飾社会史研究会

参加者:濱田雅子さん(オンライン:神戸市在住)・亀田博さん・田尻悦也さん・張穎さん・

   佐々木さん(亀岡国際交流協会職員)・吉川佳英子さん(オンライン:東京在住)・

橋本裕佳子さん(オンライン:神戸市在住)・児嶋きよみ  8

 

亀田さん(コーディネーター)リモートの参加者もいらっしゃいますが、それぞれの自己紹介から始めていただきましょう。

自己紹介

吉川さん(オンライン):東京在住ですが、愛知県の大学でフランス現代文学を専門に教えています。いつもばたばたしていますが、このGSでは、とても刺激を受けるので楽しみにしています。

橋本さん:娘ですが、母のセミナーは2回目です。母がお世話になっております。最初はニットデザインをやっていて、東京や大阪で仕事をしていました。その後、Webデザイナーとなり、インドネシアのバリ島に住んでいました。その後、日本のネットショップなどでも仕事をし、コロナ禍で退職して、現在はひもの制作などに励んでいます。

夫さんの登場:インドネシア人です。神戸市在住

張穎(ちょうえい)さん:中国出身で来日19年目になります。濱田講座は今回が4回目です。服飾については、勉強不足でしたが、おもしろいなあと思っています。服飾から歴史の移り変わりや考え方がわかるという事を知りました。毎回聞きたくて参加しています。

濱田さん:今日も楽しみですね。

田尻さん:今日は、ちょっとかぜをひいたようですが、元気です。今は島津製作所で、ターボ分子ポンプ作りをしています。明日は、社長などの前で発表会があります。テーマは、「動線と作業内容の見直し」です。どうすれば効率よく仕事ができるか、どうしたら快適に仕事ができるかなどについての発表です。ひとりでも多くの作業員が、少しでも安全・安心に仕事をしてもらいたいという願いからの発表です。

濱田さん:がんばって下さいね。

児嶋Global Sessionは、1999年から始め、今回で372回目になります。大体月に1回の開会をしてきたので、20年以上になります。20113月に私が亀岡市交流活動センターを退職してからは、NPOオフィス・コン・ジュントの主宰として開催しています。亀田さんなどはほとんど最初からの参加者です。田尻さんは、10年目になるそうです。

  今年の2024年も、12月まで実は、ゲストが決定しています。なぜか、「ゲストに出るのはいいよ」と軽く言っていただいています。これからもよろしくお願いします。

亀田さん:おはようございます。私は、濱田講座が今日は、26回目のようですが、最初から参加しています。歴史と文化とのつながりや、本の発行もどんどんやっておられますね。ずっと教えていただき、ありがとうございます。

  お嬢さんにお聞きしたいのですが、インドネシアでは、2月14日に大統領選挙がありましたね。選挙は行かれましたか?

橋本さん:行っていません。

亀田さん:若い留学生も領事館か、大使館に行けば投票ができるので、行っていましたよ。

橋本さん:自分の国の行政に興味を持つのは、日本人より多いと思います。

亀田さん:人口が多い国の選挙でもあるのですが、外国にいても投票に行くのはインドネシアだけだと思います。この選挙後、首都もカリマンタンへ変わるのですね。インドネシアは、G20なども開催され、経済発展が大きいですね。日本にも多くの若者が留学や仕事を求めて来ていますね。介護士などとしても。

亀田さん:では、これから濱田さん、よろしくお願いします。

 

濱田さん:これから始めます。

 

全体構成

序 ゲスト・スピーカーの近況報告

Ⅰ 参考文献

Ⅱ 1920年代のアメリカの歴史的背景

Ⅲ 新しいファッションー 1920年代アメリカー

Ⅳ 1920年代のファッション雑誌とカタログ

Ⅴ アメリカン・デザインー偽のレーベル

Ⅵ シルク・ストッキング

Ⅶ まとめ

 

序 ゲスト・スピーカーの近況報告

1.濱田雅子・児嶋きよみ著『濱田雅子の服飾講座「服飾からみた生活文化」シリーズ報告集』(株式会社PUBFUN POD出版、20239月)の出版

  濱田雅子の服飾講座「服飾から見た生活文化」シリーズ報告集は、アメリカ服飾社会史研究所から2017年に発行した冊子を改訂し、1125回のデータとドッキングさせて、単行本として、ネクパブからPOD出版した作品です。電子書籍はアマゾンから発行、販売しています。編集、装丁、表紙デザインは、すべて濱田雅子によるものです。講座の講師は濱田雅子、運営はNPO Office Com Junto(主宰 児嶋きよみ)によるものです。

2.濱田雅子著『アメリカ服飾史著作集カタログ』(株式会社PUBFUN POD出版、202310月)

濱田雅子のアメリカ服飾史著作集カタログ。本カタログは、筆者が武庫川女子大学家政学研究科へ提出した修士論文が元になっている『アメリカ植民地時代の服飾』(せせらぎ出版、1996年)から、濱田雅子・児嶋きよみ編著「濱田雅子の服飾講座『服飾から見た生活文化』シリーズ報告集」(株式会社PUBFUN ネクストパブリッシング・オーサーズ・プレス(202391日)に至る筆者の単著、共著、および翻訳書のタイトル、内容紹介、目次、カスタマーレビュー、書評を収録したカラー写真入りの冊子である。

3.You Tubeアメリカ服飾史講座シリーズを9本アップロードしました。

     我が国では、アメリカ服飾史の研究者は、たいへん稀少である。また、数多く見られる西洋服飾史の研究においては、上流階級の服飾に関する研究が主流を占めている。それに対して、濱田はアメリカの上流階級のみならず、中産・下層階級の服飾に関する歴史的背景を踏まえた服飾史研究をアメリカ服飾社会史として、38年間に渡って構築してきた。濱田の研究対象には、ネイティブ・アメリカン、およびアフリカン・アメリカンというマイノリティの衣服、およびテキスタイルも含まれている。本講座が、今後の服飾史研究に役立てば幸いである。

     本講座には You Tube濱田雅子で検索していただくと入れます。

    

当日の報告では、時間配分の関係で、解説を省略した項目もありましたので、本レポートで報告させていただきます。

 

Ⅰ 参考文献

Ø  TIME LIFE BOOKS編集部編 新庄哲夫訳『アメリカの世紀2 1910-1920』(西部タイム、1985

Ø  TIME LIFE BOOKS編集部編 常盤新平訳『アメリカの世紀3 1920-1930』(西部タイム、1985

Ø  濱田雅子著『パリ・モードからアメリカン・ルックへーアメリカ服飾社会史近現代篇 POD出版 2019

 

Ⅱ 1920年代アメリカの歴史的背景

u  アメリカの1920年代とはどのような時代だったのでしょうか?

常盤新平氏は、こう言っています。

²  つわものどもの夢の跡

      アメリカの1920年代は特異な時代だった。 禁酒法があり,

   しかし、たくさんの人が酒に酔った10年間である。 暗黒街が 闇酒を財源にして勢力を伸ばし,

   猟奇的な殺人やスキャンダルが相次いで起こった。 一方で リンドバー

グの大西洋横断単独飛行や、ベーブルースの1シーズン本塁打60ポンと

いう偉業があった。 雑誌『タイム』も『リーダーズダイジェスト』も『ニ

ューヨーカー』もこの時代に創刊された。 ”燃え盛る青春の時代”が

1920年代だったと思う。 

      1920年代がその前の10年代ともその後の30年代ともはっきり違って

いる。 こんな時代は他になかった。

 

    典拠:TIME LIFE BOOKS編集部編 常盤新平訳『アメリカの世紀3 1920-190』(西部タイム、1985)カバー内側

 

u   第一次世界大戦中、および、その後のファッションと女性の解放について、ジュヨン・シン(アメリカのコーネル大学人間生態学部の繊維科学およびアパレルデザイン学科の助教授)は、次のように述べている。

 「第一次世界大戦中、およびその後、アメリカのファッションは大きな変化を遂げた。戦争の結果、女性は『赤十字や兵士たちのための他の福祉活動』などの活動に参加する機会が増え、『彼らを楽しませることの興奮』や男性の代わりとしての雇用が増えた。」

 

「女性はまた、20世紀の女性の解放によって育てられた男性との法的経済的および政治的平等という自由を獲得した。彼らの社会活動の範囲は、技術の発展とともに拡大した。これらの急進的な社会的、歴史的出来事は、ファッションの変化だけでなく、1920年代の新しい女性の理想にも貢献した。」

u  第一次大戦後の女性の生き方の変化

 自動車の旅は新たな未来を開拓!

 1920年代の最初の3つの特定の出来事は、女性の生き方に貢献

²  116日 禁酒法の発効

²  820日 ラジオ放送の始まり

²  826日 女性が公式に投票権を獲得

u  500万人の女性が、295の職種で雇用

²  第一次世界大戦中、女性は伝統的に男性の仕事に就いており、雇用者は女性の適正と能力に慣れてきて、戦争は実際には既に行われていた条件を強化する役目を果たす。

²  American Businesswomanと呼ばれる雑誌の191111月号によれば、295の職業で雇用されている米国内の自立女性500万人がいた、という。

²  どのような職業か?

農家、酪農家、花屋、国内および個人サービスに従事する女性、レストラン経営者、銀行家、ブローカー、製本屋、ドレスメーカー、商人、婦人帽製造業者、速記者、タイピスト、女優、芸術家、聖職者、歯科医、ジャーナリスト、弁護士、作家、医師、外科医、教師、土木技術者etc.

 

u  女性は大学に進学して、職業婦人に!

²  女性は同じ仕事をしている男性が稼いでいた給料の何分の1かを定期的に支払われていたが、多くの仕事―男性の機械工作ーは刺激的ではなく、もっと知的な機会が増えたことで、女性にとってもっと魅力的な仕事をしようという考えが生まれた。

²  女性が大学に通うことに対する偏見が減るにつれて、多くの女性が教育を求め、卒業生は職業を探し求めた。

²  ジャズやブルースが定着

ラジオの台頭によりほとんどの家庭に音楽が持ち込まれ、1950年代から1960  年代にかけてロックンロールやロックが行われたのと同じように、人気音楽、特により奇妙なブルースやジャズが1920年代に定着した。 国のいくつかの地域では、ダンスマラソンは、一時的に楽しまれ、1930年代にはいっとき流行らなくなった。

²   一日中働くことができ、一晩中遊ぶことができた精力的なアメリカの女の子は、その時代の理想的な女性の気風を定めた。

 

Ⅲ 新しいファッション―1920年代アメリカー

Ø   ジュヨン・シンは、引き続き、女性の自由と行動範囲の広がり、1819世紀の拘束的なファッションからの女性の解放について、こう述べる。

「現代の女性らしさの理想は、もはや19世紀の彫像のような姿ではなかった。日焼けした肌、健康、そして若さが、最もスマートな時代になった。スポーツ、旅行、ダンスが人気となった。女性がより大きな自由とより広い範囲の活動を得たので、彼らの服もそのようになった。女性はコルセット、18世紀のウェスト(ブラウス)、ベルト、ロングスカート、ハイカラー、邪魔な袖を捨てた。スカートは短くなり、ゆったりとしたシンプルなドレスが好まれた。 20年代のファッションは、これらの変化に基づいて進化し始めた。」

Ø  女性のファッションの変化 1

第一次世界大戦中と大戦後の女性の生活の変化は、以前よりもはるかに自由度が高く、フォーマル性が低い衣服のためのファッションの変化と並行していた。 メーカーやカスタムデザインのメゾン、自分の衣服を作ったり、ドレスメーカーに自分の服を作ってもらったりした女性たちは、存在していたドレス、色彩や 材料、襟または袖の形状、曳き裾の長さを最新流行に作り上げられていたドレスに組み込む準備が整っており、ファッションの構成要素に関するニュースに従った。

Ø  女性のファッションの変化 2

美しいレースはベルギー、イングランド、アイルランド、スコットランドから、ショールはカシミールから、ビーズやクリスタルは、オーストリアから輸入することができましたが、アメリカは、ファッションのあらゆる分野を完全に自給自足に発展させる唯一の国でした。

フランスは、新しいモードを成功裏に宣伝して、その中に入ったコンポーネントを販売する唯一の国でもありました。

 

Ⅳ 1920年代のファッション雑誌とカタログ

Ø  レディス・ホームジャーナル(LHJ

レディスホームジャーナル(LHJ)は特に貴重でした。 LHJはパリのファッションショーに関する記事を掲載していたので、普通の働く女性や主婦は当時ファッショナブルと考えられていたものを知っていました。ほとんどの女性誌は、すべてのファッションショーを調査するために特派員をパリに送りました。その後、彼らは家のスケッチと最新のファッションの説明を送ります。パリでは、春と秋という2つのコレクションショーを開催しました。ほとんどのファッション雑誌は、DelineatorPictorialSimplicityButterickMcCall、およびその後閉鎖された多くのレーベルの広告だけでなく、独自のパターンのラインとともにこの情報を掲載していました。

Ø  American Vogue Magazine

 ヴォーグパターンは、American Vogue Magazineのサービスとして20世紀初頭に最初に作成され、クチュリエパターンサービスのパイオニアであるように見えました(ArnoldVol. , p.18)。この情報から、1920年代のシルエットが常に変化していることがわかります。デザインハウスはそれぞれの新しいコレクションを発表し、バイヤーが彼らの専門知識、彼らの変化、彼らの「新しいルックス」を利用するのを待ちました。

 

Ø  ブラウスとセパレートは人気

Ø  下着:キャミソール・ブールーマー・スリップ

 1920年代初頭の下着は、キャミソールとブルーマー、スリップ、またはそれらの組み合わせで構成されていました。キャミソールはサテン、クレープデシンまたはバチストから作られ、刺とヘムステッチ、またはバランシエンヌレースでピンタックおよび/またはトリミングされました。ブルーマーは一般的に非常に広い脚と非常に低い股を持っていて、着用すると短いスリップのように見えることがよくありました。彼らは通常、ウエストに引きひもまたは伸縮性がありましたが、ボタンの前立てで見られたものもありました。スリップはシンプルなシュミーズまたはスラッシュアンドギャザースタイルでカットされ、ナイトガウン、ローブ、私室のキャップを含むアンサンブル全体が一致するように作られていることがよくありました。

Ø  帽子・ブラジャー・コルセット・サスペンダー

夜の髪型を守るためにブドワールの帽子をかぶっていました。ブラジャーは非常にシンプルで、一般的にバストを覆うダーツバンドまたはリボンでまとめられたいくつかの小さな三角形で構成されていました。コルセットはまだ年配の女性や体型の重い女性が着用していました。コルセットは一般的にバストラインから太ももの上部までの姿を覆っていました。前面と側面のストッキングを支えるためにサスペンダーが取り付けられていた(LHJ19202月)。

Ø  マタニティウェア

1921年の初め、LHJのファッションページでは、ブラウス、ドレス、コートにウールとシルクのフロスと薄い銀のブレードが大きく刺されていると書かれていました。 パターンブックは、マタニティウェアや非常にシンプルなハウスドレスのように見えるフルカバーオールエプロンなど、あらゆる機会に針子とその子供たちに必要なすべてのワードローブをカバーしていました。

Ø  スポーツ・ファッション

19224LHJは、スリッポンブラウスを着用した白いフランネルまたはウールのジャージープリーツスカートを押すスポーツファッションを宣伝しました。 5月、L'Aiglonはタブドレス(洗えるシルク)を宣伝し、パリからのニュースは、ニットのシルクジャージーから作られた「ニットのスポーツウェア」が大流行したというものでした。 ファッションページでは、シャネルと、ストライプのボーダーと細いローベルトを備えたベージュのクレープの簡単なシュミーズドレス、そしてベルトのないサックコートの柔らかい襟と袖口について話しました。 スーツはまだ仕立てられた男性的な仕上がりで、一般的に腰にベルトを付けて着用されていました。

Ø  デイウェアでは、その春にブルーとブラウンの組み合わせが人気だったようですが、スポーツウェアのフロックでは、ウールのフランネル、リネン、コットンなど、さまざまな色が求められていました。 それらは一般的に、太ももの長さのジャケットを着たまっすぐでゆるいフロックのように見えました(LHJ19231月、3月)。

Ø  1928年のパリの春のコレクション
シルエットの変化

 

Ⅴ アメリカン・デザイン―偽のレーベル―

Ø  安城寿子氏(阪南大学流通学部准教授)の書評から(拙著『パリ・モードからアメリカン・ルックへ』への書評アメリカ服飾社会史研究会会報 No.11 から)

Ø  特に、19 世紀後半から 20 世紀にかけて存在感を強めてくるアメリカという国とパリ・モードの関係性がどのようなものであったかという疑問に十分に答えるものは少なく、発表者は、常に、手がかりとなる研究を探してきた。 

 最も多くの示唆があったのは第二部第 1 章である。SB・マーケッティと JL・パーソンズによる研究やサミュエル・ホプキンス・アダムズの論考の紹介とともに、そこでは、20 世紀初頭のニューヨークにおいて、「パリ製」であることが特別な意味を持っていたがゆえに商品の出所を偽る偽造商法が横行していたこと、さらに、パリ・モードの威光の陰で、アメリカの服飾デザイナーがなかなか表舞台で活躍する存在にはなりえなかったことが明らかにされている。

この第一の点は、非常に重要である。というのも、20 世紀初頭のアメリカにおけるパリ・モードの模倣の問題が語られる際、先行研究や関連書籍の多くは、1913 年に渡米したポール・ポワレが「ポワレ」のタグの付いた大量の偽造商品を目にして激怒したという逸話に言及してはいても、アメリカにおける偽造商品の実態について史料的裏付けとともに明らかにしてきたわけではないからである。第二部第 1 章の内容を通じて、アメリカで横行していた偽造商法はデザインの模倣とは別の次元で出所を偽る商売であったことが分かった。この事例は、当時のアメリカにおいて、デザイン云々ではなく「パリ製」であることがそれだけで付加価値を持っていたことを物語っている

 

Ø  アメリカのファッションが前向きになっていなければならない時には、今や普及している快適さと容易さの概念に基づいていたため、困難な財政状況に触発されたフランス人は、クチュールの芸術性を開発するのではなく、「アメリカンデザイン」によってこれを達成しました。 アメリカのデザイナーやメーカーは、まだ自己宣伝の芸術を学ぶことはできませんでしたが、彼らはコピーをしたり、コピーを主張していたので(彼らは 「シャネルスーツ風の」という説明をつけて、$ 19.95のスーツを$ 24.95で売ることができました)、彼らは "手の中の鳥"で、瞬時にしてお金をだまし取ったのです。

Ø   何と言っても注目したいのは、アメリカ人によるパリのデザインのコピーに関するヴォーグやハーパース・バザールの記事である。ジュヨン・シンはこれらの記事を次のように紹介している(18)

「アメリカのヴォーグの記事は、アメリカのファッション業界にこの精神を示した。芸術は創造的というよりも選択的であり、ニューヨークのファッションは、パリのインポートされたデザインに基づいていることを意味していた。富裕階級向けのニューヨークのデパート、すなわち、バーグドルフ・グッドマンやジェイ・ソープ社やサックス・フィフス・アベニューには、それぞれ、最新の最も独占的なパリのデザインが販売される特別部門があったのだが、これらの高級既製服市場において、パリのデザイナーの安価で違法なコピーが生み出された。

Ø  偽のレーベル

ユニ-クなアメリカンデザインの存在を確立することの問題点の1つは、多くのアメリカンデザインの衣服が売り上げを上げるために、フランス製として通っていたということであった。フランスの衣装の威信は依然として多くの顧客に影響を与えたため、フランスの裁縫師とデザイナ-の作品の過度のコピ-は続いたのである。一部の製造業者や小売業者にとって、「フランス製」のデザインへの最も簡単なル-トは、フランスの偽造品レ-ベルを付けることであった。大規模な小売業者も同様にこれらのレ-ベルを使用していた。

アメリカの女性がそうでなければ買わないので、アメリカ製の服がフランスのレ-ベルをつけている店舗がNYには十数店あったとのことである。「どのアメリカ人女性も、20ドルでは新しいパリの帽子を手に入れることができないことを知っている」と主張している人もいた。だが、虚偽のレ-ベルが消費者を欺いていると感じた人もいた。他の人は、売り手が顧客を欺くための法的および道徳的責任を負うべきだと主張した。

Ø  偽のレーベル

「アメカ人女性のパリのものに対する独創性のない執拗な要求は、詐欺につながった。このような詐欺は、今日では米国のほとんどの裁縫や製造業に浸透している。例えば、女性がいわゆる "Worth"のレ-ベルが縫い込まれた輸入ガウンを持っている場合、その確率は圧倒的であり、それは詐欺罪である」と述べ、今日のパリの偽レ-ベルの写真を掲載している。

典拠:Samuel Hopkins Adams, The Dishonest Paris Label: How American Women are Being Fooled by a Country-Wide Swindl, Dress, Vol.41978, p.22. 

 

Ⅵ シルク・ストッキング

Ø  典拠:鴇田 章『1930年代アメリカで流行した「シルクストッキング」に関する一考察―アメリカ女性を虜にした「シルクストッキンッグは日本産生糸で作られていた!(アメリカ服飾社会史研究会会報No.12

 

Ø  アメリカ女性が「シルクストッキング」を着用し始めたのは、女性の社会進出にあった。191(大正3)年、オーストリア皇太子夫妻暗殺事件に端を発した第一次世界大戦にアメリカが1917年から参戦、国家総力戦となり弾薬製造など男性の仕事を女性が担っていたのである。更に終戦後、大戦景気によって生じた人手不足にも、女性が積極的に参加したことで、服装にも変化が現れた。1920年代、欧米で流行した「フラッパー・ファッションFlapper Fashion」はショートヘアのボブカット、真っ赤な口紅 に、袖なしで幅広のストラップ、丈の短い「フラッパー ・ ドレス」(写真-1)は脚の露出度が多くなり、より美しく見せる「シルクストッキング」に注目が集まったのである。

Ø   しかし、その「シルクストッキング」のほとんどに日本産生糸が使われ、アメリカ女性を虜にしていたことはあまり知られていない。そこで当時のデータからアメリカのストッキング市場へ躍進して行った日本産生糸について考察する。

Ø   その「シルクストッキング」は1864年にイギリス・ラフボロフ生まれのアイザック・ウイリアム・コットン(Issas William Cotton)が発明した「フルファッション編機」によって造られ「フ ルファッションド ストッキングfull-fashioned stockings」と呼ばれていた。この編機は平面状に編目を増減し、脚の形に成形、後ろで縫い合わせた縫い目(シーム)のあるシームド ストッキングseamed stockings」とも言われていたのである。

Ø   アメリカへの生糸輸出は明治初期から行われ、「戦前アメリカの生糸消費量比率」によると1919(大正8)年には織物95%、ストッキングはわずか5%と生糸のほとんどが織物に使われていた(ストッキング用には1910年代から使われ始めた)。それが1936(昭和11)年には、織物53%、ストッキング47%1937年には、織物28%、ストッキング72%と逆転した。また、「アメリカにおけるフルファッションド ストッキング生産量推移」(表―2)では、19199,120万足から毎年伸び続け、10年後の1929年には37,320万足と4倍超、1939年に戦前で最高の52,560万足で6倍弱の目覚ましい成長を遂げて行ったのである。 

Ø  当初はストッキングの50%が綿素材であったが、1929年には90%がシルクに代わり、翌1930年にはほとんどがシルク素材となったのである。以降、アメリカにおける日本産生糸の輸入比率は81~97%であり、日本のアメリカへの生糸輸出比率は8495%であることが「日本の生糸輸出量比率とアメリカの国別輸入量比率推移」(表―3)に表われている。

Ø  1915(大正4)年アメリカのスコット&ウイリアム社が発明した「K式編機」は後ろに縫い目(シーム)が無い「シームレス ストッキングseamless stockings」のことで、「フルファッションド ストッキング」(写真-2)は、その「シームレス ストッキング」が普及し、流行する1960年代まで、一世を風靡し世の女性たちの憧れの的となっていたのである。

Ø     アメリカにおけるシルクの「フルファッションド ストッキング」は無地で あったため、その原料は白繭からひいた「しらいと白糸」を用い、中国やヨーロッパ産の黄繭からひいた「おうし黄糸」は広幅織物に使われ、淡色のストッキングには適さないといわれていた。こうしてストッキング用の日本産生糸はアメリカが要求する白糸の生産に照準を合わせることで、輸出を順調に伸ばして行ったのである。

Ø   ストッキング生産に用いられた生糸量が1919年から1939年にかけて、劇的に増加してゆく。また、アメリカの化粧品会社では液体や固形のファンデーションのような商品が「液体ストッキング」「レッグ・メイクアップ」などと名付けられ百貨店などで各種販売され、それを脚に塗り、後ろにシームラインをアイブロウ(眉墨)で描くと、あたかも「ストッキング」を着用しているように見え、評判となり、戦時中に流行したのである。

Ø  アメリカのデュポン社がナイロンnylonを発明

 一方、1935(昭和10)年、アメリカのデュポン社ではシルクに代わる素材の「ナイロンnylon」がカローザス博士によって発明され、1939(昭和14)年にサンフランシスコとニューヨークの万国博覧会でナイロン製の「フルファッションド ストッキング」が初めて公開された。翌1940年発売と同時にセンセーションを巻き起こし、ニューヨークでは初日に72,000足も売れたといわれている。「アメリカにおけるフルファッションド ストッキング生産量推移とその素材比率」(表―4)によると、ストッキング素材が生糸から戦後4年目の1949(昭和24)年で99%がナイロンとなった。その急激な転換が、日本蚕糸業の衰退の要因となったのである。

 

Ⅶ まとめ

Ø  1920年代は間違いなく10年間の変化でした。第一次世界大戦によって解放された女性のファッションは、ボーン入りのコルセットなどの制約の究極の終焉を目の当たりにし、初めて女性が足を見せることを受け入れました! 10年半ばまでに、裾のラインはこれまでで最も短くなり(ただし、膝の上には決してなりませんでした)、短いボブの髪が流行していました。家の電気は家事に革命をもたらし、10年半ばまでには中流階級の主婦が製造業者の主な目標でした。電気ミシンの登場は、衣料品の製造だけでなく、家庭用ミシン市場にも大きな影響を与えました。

Ø  パリのファッションは1920年代に非常に重要になりましたが、それは、クチュールがアメリカのマナーや慣習に気づき、適応したことで成功したのです。 ここにいる女性がそれに合ったスタイルだけを受け入れるという事実は、アメリカのファッションが最終的にその役割を認識することを可能にしました。 1930年代。 その匿名性を発揮して、それ自体が実在するものになるでしょう。

 

[ディスカッション]

 

亀田さんプレゼンのあとの思いなどどうぞ。

田尻さん:講義をありがとうございました。スライドを見ることによって、強調することがよく伝わるなと思いました。ファッションにぼくも興味がありますが、よくわかると思います。今日のテーマとはちがうのですが、パワーポイントでの発表はいつから始められたのいですか?

濱田さん:過去に遡りますが、大学の教室で教えた最初は、スライドを使っていて、パワーポイントに変わりました。私が教員として勤務していた武庫川女子大学では、1999年に教室環境も大幅に改造され、プレゼンテーションの方法がスライドからパワーポイントに変わりました。そのため、猛勉強をして、劣化していないスライドを業者に出して、CD-ROMに焼いてもらい、パワーポイント教材の製作、プレゼンテーションに取り組みました。教えていた武庫川女子大では、トップバッターだったらしく、情報センターのセンター長が授業を収録させてくれと言われて、パワーポイント教材の製作に取り組みました。300人ほどが私の講義に応募してきて、抽選で100名に絞ったことがあります。

   昨年は、BSの土曜日の夜11:30から配信している「ファッション通信」という番組に出演して下さいと言われ、出演しました。3時間ほどかけての収録でした。収録前の事前打ち合わせに備えて、「1920年代アメリカの服飾史」というテーマでパワーポイントを作成しておきました。取材の時に着ていたのが、このニットのワンピースです。(パリ製のカシミヤニットのワンピース)

田尻さん:今回のパワーポイントなどは何時作ったのですか?

濱田さん:今回の講演のパワーポイントは、これまで蓄積してきた材料や、今回、新たに収集した材料を編集して、一週間前に完成していました。元になっているのは、さきほどお話した取材に備えて作ったパワーポントです。視聴者の皆さんにとって、わかりやすく、面白い内容になるように、いろいろ工夫をしなければなりません。編集するには、道具も技術も必要ですね。

田尻さん:時代の最先端を走っていらっしゃいますね。いつからですか?

濱田さん:私は、49歳で大学教員になったのですが、教員には、技術革新に取り残されるのではないかという恐れがその当時からありました。武庫川女子大でも、そのための研修会がよくありました。1999年には、60歳近くだったのですが、大きな変化に取り残されないように、三宮のコンピューター学院などにいき、勉強しました。ワープロからコンピューターへの移り変わりの時代でした。パワーポイントも習いに行きました。

田尻さん:それまでは、無かったですからね。

濱田さん:スライドをどうやってパワーポイントにするかは、なかなか難しかったです。

  写真も、カメラ教室(朝日カルチャー)に通って学びました。今はデジカメで簡単に取れて記録もできますが。

   服飾は、特にビジュアルでなければならないので、パワーポントで衣裳の実物のスライドを見せることは必修です。教える仕事以外に、教材作りに時間をかけていました。用意をして毎週収録して準備するのです。

張穎さん:私も、今、外国につながる子どもの支援教育をしていますが、ときどき、授業などのために、パワーポイントを作るですが、なかなか難しく、時間が間に合わない時もあります。濱田先生は、熱心に教材を作っておられたのですか?

濱田さん:そうですね。必要に迫られて作ってきました。今では、これまで、授業や講演向けに作ってきた70本のパワーポイントがあります。とても大変でした。私は、高校や専門学校でも教えていたのですが、準備が十分できていないと教室で話すことはむずかしいと思います。わかりやすく、コンパクトに説明する必要があります。学力が定着するように、教科書に合せて、パワーポイントや動画を見せたりしながら、教える必要があると思います。できていないと、前の夜に心配になることもあります。受講生に私の授業を収録したDVDを貸し出して、復習用教材に使用することをシステム化していました。いわゆるe-learning教材です。

   今回も鴇田(ときた)さんの表をどのようにして、エクセルからパワーポイントに取り込むかを考えました。

張穎さん:パワーポイントもおもしろくてわかりやすかったです。自分で説明をパワーポイントに書けなくて、紙に書いて見せたこともあります。今回は、その点でもとても勉強になりました。

濱田さん:わかるように話をすることも大切ですね。

児嶋:今回のお話しの中で、シルクストッキングの話が一番びっくりしました。1920年代にフラッパードレスがはやり、シルクストッキングが日本製で作られ、輸出されていたとか。そしてナイロンストッキングが発明されて、1940年ころには、99%がナイロンになり、生糸が激減したとか。このような話は、初めて聞いた話でした。

濱田さん:この話の背景を繙いたのは、鴇田さんだけです。このように日本のシルクがアメリカで大流行した話はほとんど知られていませんでした。鴇田さんは、このテーマで書かれた論文が掲載されたアメリカ服飾社会史研究会会報No.11100軒の図書館へ送付したそうです。厚木ナイロン工業(現アツギ)で仕事をしていて独立されました。82年、ブロンドールを創業されました。89年に考案したルーズソックスが女子高生で爆発的人気となり、96年に「新語流行語大賞」を受賞されます。その後もレッグウエアの開発に取り組み、ヒット商品を発表してきました。2008年に、ブロンドールを退社し、絹の研究のため、信州に移住。コレクションの研究講演や展示、執筆活動を行っていますデータを緻密に集める人です。

亀田さん:今言われたようなYouTubeを時間があったら、見させていただきます。動画は何回も見られますね。濱田先生は、アメリカにも取材に行かれていますが、苦労もされたでしょう。いろいろな人材もアタックするのが大変だったでしょう?昨日のテレビで桂由美さんのシリーズがありましたが、着物社会の日本に、洋服を入れようとヨーロッパを回り、グレース・ケリーやオードリー・ヘップバーンなどの有名人にもアタックし、ウエディングファッションを開拓したと言われていました。

   濱田さんも、アメリカファッションの最新の研究者として、開拓されたと思い、リスペクト致します。

濱田さん:丹野郁先生に指導してもらいました。アメリカのメトロポリタン美術館の主任学芸員を紹介してもらったのです。その方から10個所のアメリカ美術館を紹介してもらいました。私はその時に、アメリカ服飾学会に入会し、英文での自分の論文を送っておいたのです。そのため、行った時には、時代考証をした情報に関する資料をそろえておいて下さいました。実物の写真撮影も許可していただき、時代考証した資料のコピーもいただけて、本や論文を書くときに、とても役立ちました。丹野先生は、「日本だけで発表するのでなく、ICOM(ユネスコの下部機関の服飾協議会)で発表しなさい」と言われました。それで、単身、ポルトガルに行って、博士論文のもとになった研究内容をICOMで発表しました。発表後、会場から割れるような拍手をいただきました。

   自分の足で歩いて、人脈を開拓していく必要があると思います。そうすると、多くの人の支持も得られるのだと思います。バッググラウンドとしては、語学力、体力、そして家族の支援も必要ですね。

   現在は、81歳ですが、発表の場をいただきありがとうございます。感謝の念に堪えません。

橋本さん:今日は、母のGlobal Sessionの参加がⅡ回目になります。ありがとうございます。パワーポイントはどうやってやるのかと第3者から聞く事はありますが、私は子どものころから見ていました。小さかった私は、母の部屋で声がするので、ドアを開けて見ると、ベッドで横になったまま、口は動いているのが見えました。今思えば、レコーディングをしていたのでしょう。教えることは、教わる側に伝わらなければいけないと思います。寝てないとか、大丈夫かなとは思わずに、朝早く、小ぎれいに身支度して学校に行く母を当たり前のことと思っていました。でも、今は、それが並大抵ではなかったということがひしひしと伝わって来ます。それによって積み上げた物が大きいのだと今はわかります。文献を見つけて、アマゾンで外国の本を買うなどは、母の先端さが今はわかります。私にとっても貴重な場をありがとうございました。

濱田さん:過去に、亀田さんに「これからの1930年代や1940年代の講座が楽しみだ」と言われたことがありますが、今は1930年代のYouTubeを作っています。アメリカのあまり認知されていない60人のデザイナーについて取り上げます。このことについて詳しく本に書いた人は、まだ日本にはいません。次の8月のGlobal Sessionでは、詳しく取り上げます。

亀田さん:YouTubeでは、どれくらいの時間を取られているのでしょうか?説明に。

  視聴者は、30分から50分くらいがいいのではないでしょうか?

濱田さん:実際には、詳しく説明すると2時間くらいかかることが多いのですが、視聴者も疲れが出てくるはずなので、40分から45分くらいがいいと思います。

亀田さん:ありがとうございました。次の機会もよろしくお願いします。  

 

これからのGlobal Sessionの予定

324() 10:30^12:00 ガレリア3階 会議室

ゲスト:張穎さん(中国出身・亀岡市母語支援職員)

タイトル:「亀岡で外国につながる子ども達の学習支援をして」

参加費:600円 

申し込み:児嶋まで(e-mailkiyomi-kojima @gaia.eonet.ne.jp

参加者:10名ほど

 

4月:大森和良さん

   (小浜市在住・漁師・地域創造クリエーター・シンガーソングライター・元教員)

5月:木村 且哉さん(大本本部 国際愛善宣教課長)

6月:サム・ジードさん(亀岡市国際交流員・カナダ出身)

7月:レイチェル・クラークさん 2回目(来日予定)

8月:濱田雅子さん(アメリカ服飾社会史研究者・神戸市在住)

9月:秋山昌廣さん(大本職員・ブラジル出身)

10月:玉野井麻利子さん 「縮小社会」

11月:北神圭朗さん(衆議院議員)

12月:村田英克さん(生命誌研究館)