2月のGlobal Sessionレポート(2023年)360回目
期日:2023年2月23日(木・祝)
場所:ガレリア3階 会議室
ゲスト:濱田雅子さん(神戸からオンラインで配信)
元武庫川女子大教授・アメリカ服飾社会史研究会会長
タイトル:「写真が語るアメリカ民衆の装い(その4)-1880年代の民衆の生活文化を
垣間見るー」
コーディネーター:亀田博さん
参加者:N.K.さん・D.T.スさん・E.C.さん・M.F.さん・E.T.さん・A.O.さん
濱田雅子さん・M.M.さん(オンライン)・
亀田博さん・児嶋きよみ 合計10名(オンライン:2名)
自己紹介
亀田さん(コーディネーター):今回は360回目で1999年から始まり、月一回で続いています。濱田さんのゲストとしては、24回目です。写真が語るアメリカ民衆の装いシリーズは4回目ですね。大津市在住です。
M.F.さん:濱田さんとも、お久しぶりです。参加出来てとても楽しみです。
E.T.さん:(濱田さんから:仕事は続けていますか?)
今の職は、ずっと続けられることに変わりました。島津製作所です。若手も入って来て教えることもあり、なかなか大変です。
E.C.さん:濱田さんのGSは、2回目の参加です。前回もアメリカにファッションが移る話でとても勉強になりました。服装に関することで、なるほどと思えることが多いです。
D.T.さん:お初にお目にかかります。ファッションにはとても興味があります。ブラジルの
サンパウロ出身です。
A.O.さん:児嶋の娘です。(濱田さん:お母さんにはいつもお世話になっています。)
母は、70代で元気なのでびっくりしていますが。今は、大学の事務職をしていますが、以前は、留学生などの世話をする部門にいました。
子どもの時にブラジルに3年間いましたので、日本在住の外国の方との交流には、興味があります。
(濱田さん:お母さんの後継者に如何ですか?1月のGSのゲストは息子さんでしたね。若いのに、よく考えておられるので、驚きました。)
M.M.さん(オンライン):旅行ガイドをしていました。旅行学が専門で、関西国際大学や鹿児島国際大学で教え、停年になり関西に帰って来ました。和歌山県にある自分の
家の林業を専門にやって行きたいと考えています。
濱田さん:自己紹介から
2022年の8月のGS以来で久しぶりですね。寒い中亀岡までいらしていただき
ありがとうございます。M.M.さんは、大阪からオンライン参加です。私は、49才から17年間武庫川女子大で、教鞭をとり、退職して研究に専念しています。
アメリカの服装の歴史については、日本には研究者がほとんどいません。2018年には、POD(Print on Demandというペーパーバックの出版))と電子書籍の出版を始め、6冊目を出版予定です(GSの終了後の2月26日に、アマゾンから濱田雅子著『19世紀アメリカのドレス・リフォーム思想』の電子書籍が発売されました。ペーパーバックは、3月中旬に発売予定です)。
2013年秋に服飾文化シリーズをこのGSで発表を始め、年に2回か、3回やって
きて、今年で10年目であり、回数は24回目になります。
以下は、概要です。
1 はじめに
2021年11月28日から『写真が語るアメリカの民衆の装い』というテーマで、濱田雅子の「服飾からみた生活文化」の講座を開催して参りました。今回は4回目(濱田雅子の「服飾からみた生活文化」シリーズ第24回)となります。お陰様で本講座の基礎的文献である濱田の新刊書『写真が語る近代アメリカの民衆の装い ー Guidebook of Joan Severa: Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion, 1840-1900-』 (株式会社 PUBFUN 2022 年 4 月 15 日)も無事、出版に至りました。本書は、濱田のライフワークであり、思えば、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災以来の激動の空間と時間をくぐり抜けて、誕生に至りました。何か一つでも欠ければ、このような書物をPOD出版することは能わなかったものと思われます。
今回は、表記のテーマで、前半(1880年代)、後半(1890年代)に分けて、お話させていただきます。前半は2023年2月23日に、後半は7月に予定しています。
本講座の資料
Joan Severa, Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and
Fashion(1840-1900), Kent State University Press, 1995, p.592
『写真が語る近代アメリカの民衆の装い ― Guidebook of Joan Severa: Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion, 1840-1900-―』 (株式会社 PUBFUN 2022 年 4 月 15 日) 電子書籍 アマゾン
2 前半の要旨
前半の講座は、本書に掲載された1880年代の写真分析がテーマである。
本講座では、女子服を部位別・服種別にフランスのファッション雑誌“La Mode Illustrée”掲載のファッション・プレートに観られる衣裳と比較・考察する。
ヨーロッパでは、1880年代は、クリノリン衣裳の後を受けて、バッスル衣裳が女性の衣服の中心であった。日本では鹿鳴館を舞台に、洋装化が進められた。
鉄道建設と先住アメリカ人の駆逐によって1890年までには、将来合衆国に含まれることになる大陸のほとんど全域に農場、牧場、鉱山、そして大小の都市が見出されるようになった。
1900年代の初頭までに、農村の入植者と近代社会をより密接につなぐ二つの変化が現れた。第一の変化は、1870年代ないし1880年代に始まったシアーズ・ローバック社などのメールオーダー会社が拡張され、工業社会の生産物がほとんどすべての人々に利用されうるようになったことである。農民たちはもはや情報不足に悩まされることはなくなり、ほとんど毎日彼らの家に手紙、新聞、広告そしてカタログが届けられるようになった。
この時代には、すぐに拘束性の高いハイファッションがなくなったというわけではなく、ハイファッションと家庭裁縫の衣服を共に見ることが出来るのである。
女性の社会進出はファッションに影響を及ぼしたが、女性の労働着の特徴として、上流階級の女性のハイファッションと、直接現代の衣服に通じる活動的な衣服の並存が挙げられる。
1880年代の女性ファッションの特徴は、バッスル衣裳の登場であると同時に、1890年代に広まった現代衣裳へ近づく衣服を垣間見ることができることは大変興味深い。
本講演のまとめは、以下の通りである。
1880年代の女性のファッションの特徴について、セヴラ女史は、以下のような注目すべき見解を述べている。箇条書きに紹介させていただく( Joan Severa, p.390)。
① 1880年代には、ドレスの新しい選択肢が増えたこととドレスの入手方法の変化により、選べるスタイルがかつてないほど種々雑多になった。またファッショナブルなドレスそれ自体にも最高にビビッドな変化が起こった時代であった。
② この時代の最大の特徴は、仕事を持つ女性と家庭の主婦にとっての常識的な選択肢が極めてたくさんあり、それらは高級なおしゃれ着とは大きく異なっていながら、それでいて高級なおしゃれ着の流行と深く関係していたことである。間違いなく、働く女性たちと健康を意識する活発な女性たちの意見が大きくものを言い、なにもかもがもはや海外から指図されたものではなかった、という点にある。
③ ファッションやドレスについて書かれたアメリカの新聞雑誌の記事は、かつてなかったほど、少数の恵まれた人々ではなくもっと多数の人々をターゲットとした。目的の2本柱は、貧しい女性でもしゃれたファッションを手にできるようにすることと、すべての女性が自分のライフスタイルに応じて必要な実用的ドレスを着られるようにすることであった。
④ そうでありながらも、女性の服には相変わらず本当の着心地のよさはなかった。働く女性の写真を見ても、どんなに「シンプルな」ドレスのスタイルであろうが、コルセット、細い袖、動きにくい長いスカートが写っている。この面での進歩は遅々としていた。
⑤ とはいえ、あらゆる経済レベルの人に共通して普段着として受け入れられるプレーンなドレスを見出すべく調整を行うなかで、1880年代の女性は高級服の最先端の流行の束縛から、それまでで最も離れることができた。
⑥ もっと重要なことに、1880年代末になると日常用のドレスとある種の「芸術的」ドレスのスタイルがファッションに影響を及ぼしはじめ、コルセットの圧政の終焉を告げる先触れとなった。簡素で着心地の楽な大量生産の衣服が、ついに視野に入ってきたのである。
セッション開始
亀田さん(コーディネーター):聞きたいことがあれば、どうぞ。
M.F.さん:この発表で、デザインはよくわかったのですが、カラーについてはどうですか?
濱田さん:写真が白黒で色が見られませんでしたね。M.F.さんは、現在も、子どもさんに映画制作を教えていらっしゃるので、カラーに目が向きましたね。セヴラさんは、モノクロの写真を見手から、実際には、博物館で、色付きの服装を見られています。(ウールの茶色とか、えんじ色とか) アマゾンの電子書籍(1500円)を見るともう少しわかります。Joan Severa: My Likeness Taken-Dagguerreian Portraits in America(Kent State University Press, 2005)に、1840-1860年のダゲレオタイプの金持ちのアメリカ人女性たちのカラーの肖像写真が掲載されています。
この、セヴラさんは、研究を続け、90才近くで亡くなっています。
A.O.さん:この研究の中で、働く女性の服装も出ていましたね。その女性達の仕事として、電話交換手や工場での仕事をしていたそうですが、私の質問は、この女性達の給料収入と衣服の代金の割合は、どのくらいなのかなあということです。
濱田さん:セヴラさんの、日記を見ると、それについても書いてあります。給料で買えるかどうかですね。お金がある夫人は、そのころもオーダーメイドにしていたようです。もし、買えそうにないと、ミシンを使い、自分で縫っていたようです。出来ない部分は、洋裁店で、縫ってくれてもいたようです。部分的にも。ミシンは、一定数は個人で持てていたようです。ない人はコミュニティーで共用していたとのことです。
現在の若い人たちは如何ですか?
以下にセヴラさんの著作から引用いたします。
「家庭へのミシンの普及と正確なフィッティングのための型紙システムの発達によって、この時代には型紙ビジネスが大発展してほとんどの家庭に入り込んでおり、金持ちにも貧困層にも同じように支持されていた。パターンは何サイズもあったので、ほとんど調整は不要だった。金持ちが仕立て師や裁縫婦を雇うのか、それほど余裕のない女性が自分で裁断と縫製をするのかにかかわらず、同一のスタイルが採用され消費され、ドレスの世界に全国的な“標準”ができあがることにつながった。
そこそこの収入の家の女性は、自分や家族の服を縫うだけでなく、流行遅れになった服を最新の変化に合わせてリフォームすることに山ほどの時間を費やした。1888年1月の『レディーズ・ホーム・ジャーナル(Ladies’ Home Journal)』は「購入、改変、仕立て直し、繕いの経済学」と題した記事で、そうした状況について、「女性がお金を稼ぐことは少ないので、彼女たちは自分たちの時間に何らかの価値があると考えない」と書いている。
1884年8月27日、カンザス州のアグネス・ウィアー(Agnes Weir)という農家の女性が『カンザス・ファーマー』誌にあてて「家族の服がシーズンごとの変化についていけるようにするために自分が実践している方法」を書いた手紙を送り、それが誌面に掲載された。
夏のうちに冬服を調べて、繕えばまだ着られるものを取り出し、直す必要のないものはそのまましまいます。冬に向けて家族それぞれに買い足さねばならないものをリストにします。その週の服のアイロンがけと繕いが済んだら、修理が必要な冬服の繕いに取り掛かります。これを、毎週できる範囲でやりながら全部済むまで続けます。次にスクラップを眺めて、新品を買わずに済ますために仕立て直しができるものはないかと考えます。選び出しが終わったら買わなければいけないものが何かがわかりますから、秋には冬服の準備が整います。冬の間は夏服について同じことをして、ひとつ先のシーズンに備えます。(Helvenston 96)
☆p.375☆
アニー・ゴーラム・マーストン(Annie Gorham Marston)の日記は、ウィスコンシンの田舎の若い母親が家族の衣服の準備をし、手入れをするためにどれだけの時間を使っていたかを雄弁に証言してくれる。1885年の1月1日から5月31日までの間に、アニーは生地を買って寝間着1着、白い刺繍入りスカート(skirt)1枚、キャラコ(calico)のスカート1枚、サック《sack, sacque》1着、フランネルのサック1着を作り、バンティング(bunting)*[旗布、旗などに使われる目の粗い平織の布]製のドレス1着と茶色いスカート1枚を仕立て直し、「ベンのコート、パンツ(pants)、ドロワーズ《drawers》」と多数のストッキング(stockings)と下着と、自分の「マザー・ハバード・ドレス《mother hubbard》」を繕った。また、買った布地を裁縫婦のところへ持って行って、茶色いギンガム《gingham》チェックのドレス1着、「ブーレット布(Bourrette cloth)」[ブーレット・ヤーンを用いた軽めで、表面に凸凹のある絹織物。ブーレット・ヤーンはさまざまな色の節をもった糸のこと]のポロネーズ1着、シアサッカー(seersucker)*[しじら(縞状のしぼ)の入った織物のこと。日本では単にサッカーともいう]のドレス1着の、少なくとも一部を縫ってもらった。もちろん、「へとへとになるまでシャツ(shirt)とスカートと衿を洗濯しアイロンがけする」かたわら、縁飾り素材を使って漆黒のボンネット(bonnnet)を作り、「夏の間しまっておくためにウールの衣服を洗い、繕いものをし、スカーフを作る」こともした。
最新流行の高級なスタイルのドレスは1880年代を通じて変化しつづけたが、いずれも構造が複雑で手の込んだデザインであった。しかし、昼用のカジュアルなドレスやスポーツ用のドレスは、比較的シンプルだった。高級スタイルとシンプルなドレスのどちらを着ているかの分かれ目は、必ずしも収入や階級ではなく、用途に応じていた。新しい型紙を使えば、ほぼすべての女性はスタイリッシュでドレッシーなアンサンブルを手に入れることができた。そのうえで、それほどドレッシーでない服を(おしゃれさのグレードを変えて)何着か作るか買うかしておけば、一番上等なアンサンブルはそれにふさわしい機会のためにとっておきつつ、常に場に合った服装をしていることができた。例えば、職業を持って働く女性が外出用のドレスを着て写っている写真は、似たような場面での上流階級の女性の服装と比べても遜色がない。」
A.O.さん:既製品は手軽に買う人が多いと思います。けれども、手作りの服も作っている人があり、そこに通信販売で注文して取り寄せることもあります。どのように、何を買うかという選択肢があると思います。
濱田さん:大庭みな子さんの『津田梅子』によると、津田梅子さんは、明治時代の最初に8才で、アメリカに行き11年後に帰国した津田梅子さんが、なぜ、帰国後、着物を着たり和風の髪型をしたりしたかについては、亀田さんのご意見はどうですか?
亀田さん:津田梅子さんは、アメリカ留学をしたけれども、「自分は大和なでしこだと主張し、日本文化やその代表である和服をリスペクトしていたのではないでしょうか?
濱田さん:8才でアメリカに行き、11年間いて、帰国したときは19才ですね。日本人から見たら、「アメリカに行っていた人」とみられますね。写真に写るバッスル衣裳では、西洋式の家は少なく、ふくらんだスカートでは、座れないのではないかと思います。大庭みな子さんの本によると、着物を着てたたみに座ることも難しかったようです。
また、帰国した時に、日本語で話せなかったようです。日本の生活に慣れることが最初のお目標であったかもしれませんね。
この『津田梅子』には、アメリカの友人にずっと書いていた英語の手紙集がありますが、それによると、「変わりゆく日本や日本人」についても書いていて、それを見せる伝記だと思います。
児嶋:8才で渡米し、まわりに日本語を話す人も居なくて、英語だけの生活を11年もして帰国した津田梅子さんは、かなり帰国後、ことばの問題でも大変だったと思います。8才では、日本語の学習言語をしっかり持っていたわけでもなく、その積み上げもなかったとすると、自分の英語でもっている力を日本語に置き換えるまでに相当の時間を要したと思います。そのためもあり、日本の文化や日本語を自分で学びとろうとしてもがいていたのではないかと思います。そのひとつが着物をきることだったとも思えます。
濱田さん:津田梅子さんの家庭は、北海道の開拓使出身だということで、アメリカに先に渡った黒田清隆さんという人が「アメリカの女性は進んでいる。留学してアメリカ文化を吸収し、日本で女子教育に進んでほしい」と思って5人の女性を留学させたと言われています。黒田清隆(1840-1900)は、北海道開拓使の実力者でした。
津田梅子さんは、後に津田塾大学を創設し、生涯独身でした。5人いっしょに留学しましたが、その中の一人の山川捨松は帰国後、すぐに結婚をしてしまったので、残念だと言われていたそうです。
亀田さん:M.M.さんは、如何ですか?
M.M.さん:今はファストファッションは、ユニクロなどで大量生産をしていますね。ユニクロは、中国の新疆ウイグル自治区ではもうやらないようですが。このような時代は、洋服は、直すより買った方が安いというように変わってきましたね。ブラザーミシンもミシンではもののシェアがないので、別のことで生き抜こうとしています。社会構造の変化で観念も変わってきました。アメリカ社会も変化してきて、何百年の単位で変わりつつあります。でも、せまくて深い基礎研究は必要があると思います。
亀田さん:また聞きたいことがあれば、児嶋さん経由で聞いてくださいね。
今回は終了です。
終了後の質問
1. E.T.さんから:
最初の方に、バッスルスタイルを身につけた写真を見て、華やかだなと感じたのと同時に、身体に負担はありませんでしたか?服の改良は、時間が経つにつれて良くなっていると思いますが、身体(特にお腹と腰)に負担がある気がしました。
あと、初めの自己紹介の時に、私に興味を持って下さり、私の近況を報告すると喜んで下さったことも嬉しかったです。次回お会いした時も、嬉しい報告が出来るよう頑張ります。本日はありがとうございましたと言っていたこともお伝えください。
(濱田さんから)
「E.T.さんのおっしゃる通り、バッスルスタイルは身体(特にお腹と腰)に負担があったと当時の医者が言っています。コルセットで胸とお腹を締め付ける拘束的で、非生理的な衣裳が、女性の健康に及ぼす影響について、James Cabel Jackson博士が以下の引用のように、赤裸々に書いています。
バッスルスタイル衣裳は、さらに腰に負担をかけたことでしょう。(濱田の見解)
詳しくは、これから出版申請する濱田雅子の新刊書をお読みいただけると幸いです。
濱田雅子訳・著『19世紀アメリカのドレス・リフォーム思想』(株式会社PUBFUN ネクパブ・オーサーズ・プレス POD出版 2023年4月初旬発行の予定)
James Cabel Jackson:American Womanhood: Its peculiarities and necessities(1870)から引用(クリノリン衣裳が女性の身体に及ぼす影響)
以下は本書から引用しました。
第三に、頭部を除いて、女性が身体の上部、つまり通常胸部と呼ばれる部分をどのように着飾るかということである。これは、生命と健康に関わる法則の価値を全く妨げるような方法で服を着ることは、自然に反するだけでなく、遅かれ早かれ彼女に完全な刑罰を保証することになるのだ。これから挙げるものを除いて、女性には、胸に衣装を合わせるときほど、正しい認識や自分の必要性を大きく評価する能力がまったくないことを示す方向はないだろう。生命機能の行使において、その機能を著しく阻害するような相互関係が生じた場合には、必ずその代替となる努力がなされるのが自然界の法則である。
例えるなら、何らかの原因で静脈を通る血液が、静脈の切断や取り込みによって妨げられ、つながりが断たれる。その場合、自然は直ちに血液を別の経路で心臓に戻し、遠回しに元の状態をできる限り良くするのである。肺の作用の方向も同じである。外圧や何らかの原因で血液の循環が妨げられると、自然は血液を深い血管に押し込める。そして、そこに溜め込み、心臓の働きを強めて推進させる。肺は、一度に大量の血液を保持するように組織されているが、このため、必要性に応じて、血管の被膜を拡張させ、体のあらゆる部分の循環が乱れていない場合に必要となる量よりもはるかに大量の血液を、任意の瞬間に保持することを余儀なくされている。鬱血が起こると、しばしば咳を伴う炎症が起こり、これが緩和されないと、炎症が起こり、化膿が起こり、膿瘍が形成されて、肺の鬱血を引き起こす。したがって、どのような原因であれ、肺にかかる圧力は、すべて、これらの器官の病気を誘発することに直結する。私の診療所には、肺の病気のために診察に来た女性が、通算、5,000人はいただろう。
しかし、その中には、どんなに健康な女性や男性であっても、私のところに救いを求めたときに着ていたような服、つまり、やがて肺の病気を保証するほど肺に密着した服を着ていない人が十数人もいなかったと思うのである。
健康的でない服装のもう一つのポイントは、一般に腰と呼ばれる体の部分(胃を包んでいる部分)にきつく着用していることである。この国で肺の病気で亡くなる人のうち、おそらく8分の7は胃の病気が原因であることは、不思議な事実であり、ひじょうに重要なことである。消化不良は肺の病気の前兆である。消化不良の原因はさまざまだが、衣服による胃の外圧によるものほど一般的なものはないだろう。アメリカの若者のほとんどが、ベルトやガードルで体を囲み、胃を締め付け、自然な動きを妨げるような服装をしている。食べ物を消化するために、胃は収縮と拡張を繰り返さなければならない。もし胃を収縮させて膨張できなくすると、食物を溶かして、その容器からさらに消化管に沿った器官に送り出す準備をするという、胃の本来の役割を果たせなくなる。食物の分解という胃の働きを少しでも阻害するような外圧は、直接的に腸閉塞を引き起こす傾向がある。多くの人が原因もわからずに消化不良に陥っている。彼らは黙って胃の永久的な収縮を受けたので、システムの健康状態を維持するのに十分な食べ物を保持する能力がない。
人間の胃は収縮させることができ、食物を保持するその自然な能力を3分の2から2分の1に減少させることができる。さらに、そのような収縮によって、保持できるものを消化する力がひじょうに感覚的かつ深刻に減少することを加えれば、消化不良に苦しむ人がこれほど多い理由に行き着くだろう。この国には、消化不良に悩む男性が1人いれば、女性はおそらく5人いる。これは、男性の一般的な食習慣や飲酒習慣が女性よりもはるかに不衛生であるにもかかわらず、である。これは、特にアメリカの女性によく見られる、胃に負担をかけるような腹巻きをする習慣のせいである。このような習慣から抜け出すために、私は女性の服装にベルトを装用しないこと、あるいはバスキーヌ・スタイル〔コルセットを装用したスタイル。バスキーヌbasquineは、麻布もしくは皮革に鯨のひげ,木,象牙などを入れて成形されている〕に装わないことを提唱する理由の一つを垣間見ることができる。ウエストを絞ることによって生じる胃の収縮は、それを行う人に生じる唯一の弊害ではない。胃のすぐ後ろには、生理学者が太陽神経叢と呼ぶ神経の網目があり、その形成が太陽のように見えることから、この名がついた。胃の圧迫はこの網に影響を与え、刺激を生じさせ、多くの場合、ヒステリシスと呼ばれる神経症状を直接引き起こす。おそらく、この病気を引き起こす原因として、きつい着衣によって引き起こされる器質的な神経刺激ほど強力なものはないだろう。
ヒステリーを患っている女性と関わったことのある人なら誰でも、この病気が彼女にとって、そして彼女に関わるすべての人にとって、いかに恐ろしい苦痛であるかを知っている。管理するのが最も難しい病気の一つである。ほとんど変幻自在の変化をもたらす。意志、感性、身体的行動を制御する。それに苦しむ人を常に不安定にし、発作が続く間は多くの場合管理不能にする。第五にほとんどの女性がするように、腰のあたりにきついドレスを着ることは、丁寧な言葉で「女性特有の病気」として知られる一群の病気の、強力な原因となるのである。25歳以上のアメリカ人女性で、既婚・未婚にかかわらず、何らかの形で子宮の障害に悩まされていない人はほとんどいないでしょう。この病気がこれほど一般的になった理由は、第一に、女性の体質が弱く、一般的に健康でないこと、第二に、この服装が腹部や骨盤腔に含まれる器官を機械的に変位させるためである。女性はベルトをお腹の上に、あるいはお腹のすぐ下に、常識的な圧力がかかるほどきつく締めている。すると、先に述べたように、胃が縮んで永久に収縮する。その結果、その人の腰回りが自然に小さくなるだけでなく、腸も圧力から逃れるために縮んでしまう。腹筋はその収縮力を失い、腸を腹部の下部に沈ませる。このとき、腸はその下にある骨盤腔内の臓器を圧迫する。
これらの機械的変位のいずれかに苦しむ女性は、肉体的に疲れ果ててしまう。歩くことも、働くことも、まっすぐ座ることも、重りを持ち上げることも、快適にはできない。人生は彼女にとって不快な重荷となる。」
アメリカの服飾に限らず、多民族の服飾文化(ヨーロッパ諸国、アジア諸国の服飾文化)に関する研究発表や講演、書評会、西洋服飾史・民族衣装セミナー、ワークショップ(デザイン画、手芸、コスチューム・ジュエリー制作など)を行って参りましたが、2020年より、新型コロナウィルス感染症の蔓延により、上記の様な集いが持てなくなっています。そのため、会報発行、および、オンライン講座による持続可能な活動を行っています。下記より、お気軽にお問合せ下さい。ただし、研究会の趣旨に沿わないお問合せには、対応できかねます。