Ⅰ はじめに

 2021年11月28日から『写真が語るアメリカの民衆の装い』というテーマで、濱田雅子の「服飾からみた生活文化」の講座を開催して参りました。今回は3回目(濱田雅子の「服飾からみた生活文化」シリーズ第23回)となります。お陰様で本講座の基礎的文献である濱田の新刊書写真が語る近代アメリカの民衆の装い ー Guidebook of Joan Severa: Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion, 1840-1900- (株式会社 PUBFUN 2022 4 15 日)も無事、出版に至りました。本書は、濱田のライフワークであり、思えば、激動の空間と時間をくぐり抜けて、誕生に至りました。何か一つでも欠ければ、このような書物をPOD出版することは能わなかったものと思われます。

 原書の入手、翻訳、本書の執筆に26年、かかりました。その間、阪神淡路大震災でマンションが全壊した両親の支援、両親が他界、自分自身の闘病生活(脳内出血)、引っ越しなどを掻い潜って、本書の誕生に至りました。ずっと手放さずに、取り組んで参りました。

私のささやかなライフワークです。亡き父(小川政恭、ギリシャ文学研究者、神戸大学名誉教授)の「雅子、研究をやめてはいけないよ」という言葉をとても大切にして参りました。父はライフワーク『ホメーロスのイーリアス』の翻訳書を世に出すことなく、阪神淡路大震災の二次災害(院内感染)で亡くなりました。どんなにか無念であったことでしょう。翻訳は完成しているのですが、解説が未完であるためです。父はイーリアスの世界は叙事詩なのか、抒情詩なのかという解明が困難な問題に対峙して、いつも悩んでいました。そのため、解説が未完なのです。

現在のオンライン講座の資料や情報は、濱田の本書に収録しています。

ご承知下さってますように、執筆はもとより、装丁・編集・表紙デザインもすべて自力で取り組みました。

出版社の審査を通過するのは、なかなかハードルが高かったですが、無事、合格して、ペーパーバックと電子書籍の出版に成功し、安堵しています。写真の精緻さと美しさには、息を呑みます。関係者の皆様のご支援に、心から感謝いたしております。

このGSの場で、心置きなく本書の内容を報告させていただけることに、そして、また、ご参加下さっている皆様から、貴重なご意見やご感想をいただけることに、心から感謝いたしております。コロナ禍、そして、あまりにも非人道的な戦争という世界情勢の中にあって、生きとし生ける生命体として、文化的遺産を真摯に築き上げてゆくことの大切さ、築き上げた文化は、決して破壊してはならないという心の叫びを日々受け止めながら、コツコツと本書の製作に取り組んで参りました。今回の講座へのご参加を何卒よろしくお願い申し上げます。気持ちを新たに、準備に取り組ませていただきました。

 

Ⅱ 全体構成

 

本講座の全体構成は、次の6項目です。

 

1.濱田雅子の新刊書出版のお知らせ   内容紹介   チラシ参照

2.1870年代の歴史的背景

普仏戦争 アメリカの服飾への影響

1870年代アメリカの歴史的背景 南北戦争と南部再建

南部再建の挫折とファッションの関り

3.アメリカの産業技術史ミシン パターン 既製服

4.1870年代ヨーロッパの服飾

5.1870年代写真に見るアメリカの民衆の装い

   階級的視点からみた女性服   

既製服:男性服 子ども服

移民の服装

6.     まとめ

 

Ⅲ なぜ、南北戦争と再建期に焦点をあてるのか。

 濱田は、神戸大学文学部史学科西洋史学科の助手をしていた時代に、下記の論文を書いています。この論文で扱った共和党急進派のサディウス・スティーヴンズは、南部「再建政策」として、解放奴隷に「40エーカーの土地と一頭のラバ!を」という政策を提案しています。

 

サディウス・スティーヴンズの南部「再建政策」ー反乱者財産没収法案を中心にー(著者 旧姓小川雅子) 神戸大学文学会/研究 44, 80-120 1978

 

この政策には衣服に関する言及はありません。濱田自身が、服飾研究に向かったのは、助手の任期が切れて、退職後、数年後のことです。当時は土地問題に関心が向いていました。現在は、南北戦争後の南部再建の挫折、衣服政策の実態に強い関心を抱いています。アメリカ史研究者の方々も、この問題は究明されていません。

 

 

1870年代アメリカの歴史的背景に関する本日のお話の項目を列挙いたします。

 

① 南部再建の挫折

南北戦争がもたらした被害は莫大なものであり、80年代になっても戦債利子が予算の約40パーセントを占めることとなった。再建がかなり困難であったことは、容易に推測できる。70年代は、戦争直後の『風と共に去りぬ』のラストシーンにみられる南部の荒廃した土地からの再建、復興のために国民があらゆる方面で力を注いだ時代であった。

しかし、結論からいうと試行錯誤された再建は失敗に終わった。財政上の困難、共和党の失策、人種的憎悪、その上テロなど、あらゆる要因が結びつき、共和党体制は崩れていった。だが、最大の要因は、人種間の問題であったのではなかろうか。

② 人種問題

1869.2.27 連邦議会、憲法修正条項第15条を発議

1節 合衆国市民の投票権は、人種、体色又は過去における労役の状態を理由として、合衆国又は州によって拒否又は制限されることはない。

2節 連邦議会は、適当な法律の規定によって、本条の規定を施行する権限を有する。

黒人に白人と平等の権利が与えられたとはいえ、まだまだ黒人に対する差別は色濃く残っていた。特に南部白人のそれはとても暴力的で、投票に行った黒人は脅迫されたり、ひどい暴行を受けたり、最悪の場合は殺された。70年代初頭までには、すでに再建の成功への道はとざされたも同然であった。

③ 南部再建期の共和党急進派のスローガン  “40エーカーの土地と1頭のラバを!”

1867年、ジョンソン大統領とは全く対立した再建案が共和党急進派から出され、極めて急進的な再建法を成立させた。その翌年、黒人にも白人と平等の市民的諸権利を取得するための憲法修正第14条が、憲法で裏打ちされた。1870年までには南部諸州は連邦復帰を完了し、合衆国は10年ぶりに統一連邦に戻り、明るい兆しが見えたかのようにみえた。黒人にも選挙権が付与される憲法修正第15条や、黒人議員の登場、黒人を啓発する教育が生まれたのもこの年からである。しかし、当時の黒人の切実な要求は、「40エーカーの土地と1頭のラバを!」という言葉であった。まだまだ問題の山は崩れることはなかった。政治的・社会的には成果をあげたこれらの改革をもってしても、経済面、特に土地問題を解決するには至らなかった。

④ 南部再建の挫折とファッション動向

南部の再建については、多くの人々の努力もむなしく花を咲かせることができなかった。その一方で、産業面の上昇や資本主義的発展をとげ、アメリカではある程度経済的に余裕が見えてくる。70年代に入りしばらくすると工業の発達にともなう金儲けが人々の関心を違う方向へと向けた。この後、1870年代から1890年代にかけての急速な産業の発展を背景とする、金がものを言う時代の金ピカ時代へと突入していったのである。

それにともなってファッション業界も発展してゆく。流行に敏感な当時のアメリカ女性にとっても、流行の最先端をゆくフランスのスタイルを取り入れるのが、大変容易になった。しかしフランスのファッションを全て取り入れることができたのは一部の裕福な家庭の女性であった。当時アメリカでは、Godeys Ladys Book Petersons MagazineThe DelineatorThe Ladys Home JournalHarpers Bazaarなどのファッション定期刊行誌が発行されており、これらの雑誌にはドレスの作り方が掲載されていた。中でも、Godeys Ladys Bookには、フランスの上流階級の人々のスタイルが見られる。アメリカの女性は、フランスのスタイルに憧れを抱き、あまり裕福でない家庭の女性はミシンをフル活用して流行を取り入れ、また、それを楽しんだ。このように、南北戦争、産業の発展、鉄道やミシンの発達、ファッション誌の発行、という過程を踏んでアメリカのファッション業界は変化と発展を遂げたのである。

 

Ⅳ 本講座のハイライト:アメリカにおけるパターン・システムの発達

  濱田は歴史研究者、服飾研究者であり、衣服製作の技術者です。文化服装学院の通信教育で洋裁を2年間、学び、その後、夫の転勤先の東京、富山、鹿児島の洋裁学校で立体裁断・平面裁断を学びながら、既製品、プレタポルテ、オーダーメイドの仕事に、10年、近く携わっていました。その間、わが国のアパレル業界の労働条件の過酷さを、いやというほど味わいました。その過酷さは、まさに『女工哀史』です。私は、この経験については、本には書いていませんが、私を服飾研究の世界に駆り立てたのは、外ならぬこの過酷さから抜け出る対処法を探し求めた結果であります。技術者は大切にしなければなりません。大手のアパレル企業ほど、下請けの家庭の主婦の技術力に頼り、労働者を著しく搾取しています。

  服飾研究に携わるなかで、このような技術を習得したことのプラスの面を実感するようになりました。一口では言い表せませんが、技術を習得した人と、していない人の書く文章のなかに、如術に現れてくるのです。理論と実践は、車の両輪なのです。

  私は手元の生地を素材として、デザイン画を描き、パターンを引いて、生地を裁断して、イメージした衣服を作るのがとても好きです。ですが、家族の衣服だけではなく、商品生産に携わっていましたので、その厳しさは、衣服生産を苦にさせ、ミシンを押し入れにしまいたくなるほどでした。そのため、大学院に進学し、大学教員として、洋裁教育にも携わるようになりました。そして、好きな服作りは、国際会議での衣装展への出品に限って行ってきました。作品をアメリカ服飾社会史研究会のホームページから紹介させていただきます。現在は、著書の執筆活動に専念しています。

  今回の講座では、19世紀アメリカにおける産業技術史のなかの衣服製作のための型紙の発達に焦点をあてて、やや専門的なお話をさせていただきます。きっと、とても面白いと思います。発明や特許というものが、技術の世界を飛躍的に発展させてきた様相をお楽しみ下さい。

  デモレスト・パターンやバタリック・パターンをご存じですか?後者は洋裁経験のある方なら「ああ、あれね」と思い当たることがあるかもしれません。本講座でお話しさせていただく項目を以下に列挙しておきます。

① 型紙の製図システムの開発

   1870年頃までは男性服の特許の方が女性服の特許より多いが、1880年に至る10年間で女性服の特許が急速に増し、男性服を逆転している。この傾向が1910年までつづき、1910年以後の10年あまりでほぼ同数となっている。

② 特許の実用性

特許の実用性について、キドウェルは「特許は考案され、利用されたシステムを代表するものではない。……ファッションの変化にともなって、特許が認可されたときには、時代遅れのものになっていたようである」とも述べている。型紙には、このような側面もあったのである。

③ Aテントラー(Aaron A. Tentler)の1841年1月23日付け特許(U.S. Patent 1,944

   立体をなす人間の身体に合う、型紙を平面で描くのは、とてもむずかしく、Aテントラーは、穴をあけた道具を使用する割り出し式システムを考案した。

 AマクドウェルA. McDowellの調節式製図用型紙Adjustable Pattern for Drafting Garments

AマクドウェルA. McDowellは、調節式製図用型紙Adjustable Pattern for Drafting Garmentsを考案し、1886518日に特許を取った。

⑤ デモレストパターン

1876年のフィラデルフィア万博にはデモレストとバタリックの型紙をはじめ、合計12の製図システムが紹介されて見物客の注目を集めた。この時のデモレストの展示は、穴のあいた道具と何百枚ものサイズ別の型紙を用いたドレス裁断システムであった。

・デモレスト夫人とは?彼女のバックグラウンドを紹介。

・デモレスト夫人による型紙の発明

⑥ バタリックパターン

バタリックはアメリカで薄葉紙の型紙の大量生産に初めて成功した人物である。1863年、37歳のバタリックは、マサチューセッツ州スターリングで彼の最初の型紙を作成した。翌1864年にニューヨークに引越し、J・ウィルダー(J.W.Wilder)、A・ポラード(A.W.Pollard)らとバタリック社を設立した。

バタリック社の型紙

・パスト・パターンズ社の薄葉紙型紙の紹介 

⑦ 型紙が家庭裁縫に与えた影響
⑧ ヨーロッパへ進出する両社
⑨ 家庭裁縫と既製服

 

Ⅵ 1870年代写真に見るアメリカの民衆の装い 

   階級別にみた女性服  金持ちの女性と労働者(新聞配達、織物工場の女工)の女性の服装

既製服:男性服 子ども服  

移民の服装

 

Ⅵ まとめ

 「1870年代に入ると、最初の23年は不景気で新しい服を購入するだけの余裕はなかったのだが 、衣服に関して徐々にではあるが社会が全ての人に対して流行を追わせていた」とセヴラ女史は述べている。社会と流行の結びつきを示す見解がセヴラの文献に述べられている。セヴラ女史は、「流行において地方の女性が遅れているのは、働く上で、細かい装飾の施してあるものや豊かすぎるスタイルのものは、実用的ではないから故意に避けているためである。しかし、トレンドについて行くために都会へ訪れ、新しい感覚に触れることが必要とされていたようである」と述べている(Joan Severa, p.292, 295)。

「輸送の発達のおかげで、何処に住んでいてもパターンや布地を手に入れることが可能となり」、これによって地方だからといって良い物が手に入らないということはなくなったのではないかと思われる。つまり、全ての人々が同じライン上に立たされたことになるのである。それゆえに、地方だから流行遅れになっても仕方ないというのは通用しなくなったのではなかろうか。」(Joan Severa, p.293)。

ここまで述べられたことに関してみても、社会が流行へ、流行へと後押ししているように思える。さらにもっと強い意見が述べられている。それは、新しい服を手に入れる能力が重要視されており、「流行に遅れてしまったら社会追放を蒙るであろう」とセヴラ女史は考えているのである。社会追放とまで大々的に述べられているので、流行を追って服を着ることができる情熱は計り知れないものであろう(Joan Severa, p. 294)。

 

参考文献

 

Joan Severa: Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion, 1840-1900-, Kent State University Press, Ohio, 1995.

 

濱田雅子著『写真が語る近代アメリカの民衆の装い Guidebook of Joan Severa: Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion, 1840-1900-』 (株式会社 PUBFUN 2022 4 15

 

濱田雅子著『アメリカ服飾社会史』(東京堂出版、2009)  品切れ

濱田雅子著『アメリカ服飾社会史』重版(株式会社 PUBFUN 2022 年 秋 出版予定)

 版元の東京堂出版から濱田が出版権を取得しました。株式会社 PUBFUNからペーパーバックと電子書籍を出版させていただきます。事項索引、人名索引も作成し、初版の誤字・脱字の修正、内容の補足修正を完了しています。写真もカラー写真を数多く掲載しています。これから最終チェックをして、出版申請に進みます。本書の重版出版により、濱田雅子の『アメリカ服飾社会史』シリーズ(1~4)のPOD出版と電子書籍が一堂に会します。

 

『アメリカ服飾社会史』重版(株式会社 PUBFUN, 2022秋予定)

『パリ・モードからアメリカン・ルックへ―アメリカ服飾社会史近現代篇―』(株式会社インプレス R&D, 2019年)

『アメリカ服飾社会史の未来像――衣服産業史の視点から―』株式会社インプレス R&D, 20204月)

20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実――アメリカ服飾社会史続編―』株式会社インプレス R&D, 20214月)

 

濱田雅子著「『アメリカ服飾社会史』シリーズ誕生への道のり」(アメリカ服飾社会史研究会会報No.13掲載予定) https://www.american-mode.comに電子版掲載予定

 

 

 

セッション開始

亀田さん:感想などをどうぞ。オンラインの吉川さんは、すでに退席され、チャットで 感想が寄せられています。

KYさん:チャットでは、先生が衣服の制作者でもあられることが、研究におおいに資 している旨、お伝えしたく思いました。じっさい、型紙の解説などは、経験者でなけれ ば指摘できない内容だったかと思っています。(メールより)

亀田さん:では、自己紹介がてらに感想をどうぞ。

MHさん:初めての参加で、ファッションは初めての分野で、服のデザインなどに接す る機会が無かったです。6枚の女性の写真の説明がおもしろかったです。今の時代は、 どこにも同じデザインで服があり、ブランドに関わりなく売られています。服のデザイ ンによってその人の階級がわかるとは思っていませんでした。

濱田さん:中国出身の方は、西洋の服飾の歴史などを勉強されたことはありますか?

CEさん:西洋の服のデザインの歴史などは学んでいませんでした。母親が娘のころは、 文化大革命(1966年~1969年)が始まったころで子どもも皆、同じ服を着なけ ればならない時代で、私自身も、中学生になって初めて母親から花柄の生地のドレスを 作ってもらいました。

児嶋:お母さんは、自分で洋服を作れたのですね。

CEさん:母親は、昔の日本人の工場で働いていて、昔の型ですが、ミシンで縫い、型 紙の作り方も知っていました。

濱田さん:中国には中国服の歴史があるはずですね。チャイナドレスも変化してきてい るでしょうし、欧米の服の歴史とはまた、ちがっているでしょうね。

HMさん:ファッションの勉強はしたことがありませんでした。あの中で『大草原の小 さな家』くらいを知っていたぐらいです。鹿鳴館時代の貴婦人の洋服を着たのを見たの も初めてです。

濱田さん:それも明治の初めで大政奉還が1867年10月14日ですが、1871年 には岩倉使節団とともに、津田梅子ほか、5少女がアメリカ留学とありますね。大政奉 還から4年後に女の子がアメリカに行っています。 アメリカでも中産階級の服飾の歴史の資料は少なくて、ミネソタの写真は貴重です。

SWさん:デザインには興味があります。ミシンはないけれど、自分がやる気が出てき たら、自分の服も自分で直しています。今日の講座で、服飾の歴史を学びましたが、一 部の金持ちだけの洋服であったのが、ミシンが発明されて、一般の人も自分で作りたけ れば作れるようになったという点は大きな変化だと思います。自分をアッピールしたい 時に、服で表現する方法もあるのだと思いました。今回の発表では、写真の発展も関係 がありますね。現在は、余分の衣服を買い、捨てていくので、ごみの問題が起こってい ます。発展途上国へ衣類を送る運動がありますが、実際には、ごみの山が発生していま す。環境問題も大切にしたい課題であると思います。

濱田さん:大量生産と大量消費の時代になり、たくさん作り、たくさん捨てられていま すね。『アメリカ服飾社会史の未来像―衣服産業史の視点からー』(2020)でも環境 問題について取り上げています。

亀田さん:中産階級の人々が洋服に興味を持ちだした時代と言えますね。ウエデングド 12 レスとか、子ども服とか、母親が作るとか。1870年代に明治維新後、鹿鳴館時代や 津田梅子が留学したり、高級な洋服も日本にあったということが興味深いです。 現在は、コロナ禍の中、衣服もアフリカに送ることもできず、保管にもお金がかかっ てきているようですね。自分の町を離れなくてはならなくなった移民の多いウクライナ にも運べないというようなことも起こっているようです。 中国と日本は、現在、鎖国状態のようになっていますが、これまでの工場や、中国製 の洋服などはどうなっていくのかと心配です。特にアパレル業界は心配のようです。

濱田さん:これからは、余分な物は作らずに受注生産にすべきだと思います。店が空に なるのもいけないし、これからの物が不足する時代を考えて真剣に取り組む必要がある のではないでしょうか? 私が自分で作った洋服もあります。ホームページを見ていただくと見る事ができます。

児嶋:時間が来たので、今日はこれでおしまいにしますが、質問や感想がまだあれば、 児嶋までお知らせください。ありがとうございました。