濱田雅子の服飾講座「服飾からみた生活文化」

シリーズ13

先住アメリカ人の衣文化と教育問題

日時:2018 年 1月 21 日(日)  1:30~4:00

場所:ガレリアかめおか     3階研修室

〒621-0806 京都府亀岡市余部町宝久保1−1   

Tel 0771-29-2700

 

 

タイトル:

先住アメリカ人の衣文化と教育問題

 

概 要 

1.歴史的背景

ヨーロッパ人到来(1500年頃)以前の北アメリカには、それをさかのぼること2万年も前から、古(パレオ)インディアンと呼ばれる狩猟民が住んでいました。彼らは、今から1万年以上も前に、尖頭石器を用いて、マンモス、マストドン、ウマ、大型バイソンなどを捕獲したのです。彼らの先史文化は古(パレオ)インディアン文化と呼ばれています。それでは彼らの移植の背景はどうであったのでしょうか?周知のように、ウィスコンシン氷河期に氷河が発達して海面が低下し、それに伴い、べ一リング海峡のあたりが陸続きとなりました。彼らの祖先は、このときに、ここを通ってアジアからやってきたと想定されています。彼らは日本人と同じモンゴロイドです。また、ベーリンジアが水没し始めると、紀元前8000年頃から海岸沿岸沿いに船などで渡ってきた新しいモンゴロイドたちが、いわゆる「エスキモー」の祖先なのです。彼らの子孫は南北アメリカ全土に広がり、多種多様な社会を形成しました。最初のアメリカ人たちは、天然資源を活用し、それぞれの居住地の気侯・風土に柔軟に適応していました。彼らの衣服はアメリカ大陸全土の植物群と動物鮮を包含していました。メキシコ北部の北アメリカのネイティヴ・アメリカンの衣服は、著しく多様でした。繊維製のスカートからバッファローの毛皮製のローブ、絢爛豪華な羽毛製の戦闘用のボンネットからシンプルなヘッドバンド、念入りにビーズで装飾されたベストから毛皮製のパーカーに及んでいました。衣服を構成する諸要素のなかには世代から世代へと受け継がれてきた部族の慣習やスタイルやデザインに基づくものがありました。彼らが形成した文化圏は10の文化圏に分類されています。それらは南東部文化圏、北東部文化圏、大平原文化圏、南西部文化圏、大盆地文化圏、高原地帯文化圏、カリフォルニア文化圏、北西海岸文化圏、亜北極文化圏、および北極文化圏です。

 17,18世紀のアメリカ植民地時代には、モンゴロイドの子孫が築いたとされるアメリカ大陸の先住アメリカ人の社会へ、イギリス人やオランダ人やフランス人やスペイン人やドイツ人が次々と植民してきました。植民地建設は南部のヴァージニアから始まりました。1607年、イギリスの特許会社ロンドン・カンパニーはヴァージニアのジェームズタウンに恒久植民地を建設しました。1620年、ピルグリムたちはメイフラワー号で新大陸のプリマスヘ上陸しました。他方、1630年にサチューセッツ湾植民地を建設したピューリタンたちは、プリマス植民地を併合し、ニューイングランド植民地を設立します。中部の二ューネザーランドのハドソン川流域地方、デラウェア湾沿岸、ロング・アイランドにはオランダ植民地が建設された。オランダ人は半荘園的な農業植民地を設立し、ネイティヴ・アメリカンと毛皮取引を行いました。

2.先住アメリカ人の衣文化―アパッチ族、平原部族、森林部族(五大湖地域から南のオクラホマ州)、セミノール族、カナダのイヌイットとアラスカの「エスキモー」、および亜北極文化圏のアラスカの民族衣装

  これらの植民地に移植されたヨーロッパの白人の服飾文化は、それぞれの地域の社会構造に対応しつつ、変化・発展をとげてゆきました。しかし、全体的に見ていえることは、彼ら白人は、植民当初は本国ヨーロッパの貴族的な社会や文化に思いをはせ、ネイティヴ・アメリカンに強制移住を迫りつつ、アメリカ大陸にヨーロッパ社会を再現し、ヨーロッパの王侯貴族の服飾文化を導入しようとしたということです。先住アメリカン人の服飾文化はヨーロッパの白人文化からどのような影響を受け、どのように変化していったのでしょうか。本講演ではこのような疑問を投げかけながら、アメリカの民族衣装とは何かを問うことにいたします。

そこで、10の文化圏のなかから特に代表的なものとして、南西部文化圏のアパッチ族、大平原文化圏の平原部族、北東部文化圏のイロコイ族と森林部族(五大湖地域から南のオクラホマ州)、南東部文化圏のセミノール族、北極文化圏のカナダのイヌイットとアラスカの「エスキモー」、および亜北極文化圏のアラスカの民族衣装を取り上げます。西部の文化圏はカリフォルニア、高原地帯、大盆地の三つに分けられます。生業としては狩猟も行われたのですが、採集の方がより重要でありました。この地域の文化は、周囲の北西海岸、大平原、南西部の諸文化の影響を受けており、一つの文化圏としての独自性も乏しいと言えます。民族衣装についても同じことが言えます。それゆえ、本講演ではこれらの文化圏は扱いません。

2017年8月20日の濱田雅子の服飾講座「服飾から見た生活文化」シリーズ12でお話ししたように、ナバホ族は羊と製織に関する知識を、プエブロ族との戦と交易とによって獲得しました。ナバホ族とともに南西部に住んでいたアパッチ族は、現在では、アリゾナ州、ニューメキシコ州、およびオクラホマ州に分散しています。彼らは皮製の衣服を着ていたのですが、生活様式の変化と猟獣不足という状況の中で、工場生産された布を受け入れました。

  平原部族は大平原地域に居住するネイティヴ・アメリカンです。彼らのスキン・ドレスは「インディアン」のイメージと強く結びついており、鹿やエルク(ヘラジカ)やアンテロープの皮で作られました。工場生産の生地は皮革にとって代わるのですが、衣服の基本的裁断は以前と変わりませんでした。

  北東部文化圏のイロコイ族は、16世紀にヨーロッパ人との交易により入手したビーズやリボン飾りを、森林部族は布とリボンを彼らの民族衣装に採り入れました。

 セミノール族は、18世紀中葉に、白人植民者の侵入から逃れるためにジョージア州からフロリダ州に移住しました。セミノール族は鮮やかな幾何学的パッチワーク模様で飾られた独自のファッションを発展させました。

 北極文化圏のカナダに住むイヌイットやアラスカの「エスキモー」や亜北極圏のアラスカの衣服は、厳しい極寒の気候のせいで獣皮と毛皮製のものが主要な衣服でありました。スノーモービルや全地走行車などの近代技術が導入された今日も、毛皮の収穫はイヌイットの文化の一部をなしており、貴重な現金副収入になっています。とはいえ、カナダやアラスカではアメリカ政府の保護政策や現代文明の導入により、文化やファッションなどのライフ・スタイル全体において、先住民のアイデンティティが問われているのが実状です。

3.先住アメリカ人の教育問題

 次に、19世紀末から20世紀転換期の先住アメリカ人の教育問題を取り上げます。

 連邦政府が「インディアン」という法的地位を創出することは、領土拡張の過程においては「余剰地」の開放を促進するという入植者側にとっての利点がありました。

 ところが南北戦争の混乱がおさまりつつあった1880年になると「インディアン」という特殊な法的地位を有する集団の存在は、国民的統合を進めるうえでは障害とみなされるようになりました。

 1880年代以降には「インディアン」を斬新的に同化することが新たな政策目標として掲げられるようになりました。すなわち、保留地の解体と「アメリカ市民化」教育の普及は連邦政府の対先住民政策上の車の両輪となったのです。

 

(1) 連邦政府の土地政策―ドーズ法

本講演では、教育政策を検討する前に、先住民政策の基調をなしている土地政策について述べておきます。

1887年にドーズ法が制定されました。この法律は一般土地割当法と呼ばれ、保留地の個別割当を目的とします。この法律は南西部の先住民社会においては、一部を除いて、実施されませんでした。入植地としての魅力に欠けた当該地域では、むしろ「変則的」かつ複雑な土地所有については保留しておき、まずはインディアン局所管の学校における同化教育が進められることになります。

 

 (2) 連邦政府の教育政策とその実態

  19世紀末から20世紀転換期に、国立の「インディアン・スクール」(先住民のみを対象とした学校)の急速な整備が進められ、1879年に初の保留地外寄宿学校がペンシルバニア州カーライルに開校されました。

  20世紀初頭までに合計25の保留地外寄宿学校(総生徒数約6,000人)に加え、81の保留地内寄宿学校(同約8,000人)と147の通学校(同数3,500人)がインディアン局所管の学校として設立・運営されることになります。

  本講演では、カーライル校の教育目標、指導要領、カルキュラムなどの教育実態、制度としての学校教育の定着の度合に焦点を当てて、連邦政府の教育政策について語らせていただきたいと思います。

 

 参考文献

・丹野郁監修『世界の民族衣装の事典』(東京堂出版、2006年)、濱田雅子担当 第8章北アメリカ、333-362頁。

・水野由美子著『〈インディアン〉と〈市民〉のはざまで』(名古屋大学出版会、2007年)第1章、第2章。

 

                    (文責 濱田雅子)